いよう……。」
「我慢だよ、一寸の間なんだから……。注射はもういけないって、先生が仰言ったでしょう。」
 痛みが少し鎮まると、美代子は金盥にしがみついていた。
「無理に吐こうとしちゃいけないよ。注射のせいだよ。何も出やしないんだから。」
 そしてるうちに美代子は、もうぐったりして眼を閉じていた。
「蒟蒻を取り代えてみましょうか、煮立ってるから。」とばあやさんが云った。
「そう。いいでしょう、こんど起きた時で。」
 そして照代はまた鏡台の前に戻ってきた。
 梳手が髪を梳いてる間、お師匠さんは手焙で煙管をはたはたやっていた。
「苦しそうですねえ。」
「ええ、そりゃあ苦しいんですって。喇叭管がひきつけるから、腰と下腹がちぎれて取れそうだって云いますよ。お産の時と同じだそうですもの。」
「へえー、そうですかねえ。」
 僕は一人で茶をいれて飲んでいた。
「それじゃあ、痙攣かい。」
「ええ。」
「では、唐辛子をはるといいんだよ。」
「あら、いやーね、そりゃあ胃痙攣のことよ。」
 照代はそれでも学者だった。先生は蒟蒻で温めるように云ったけれど、氷で冷しきった方がいい、それも人によるんだけれど、などと云っていた。
 僕はいい加減のところで立上りかけた。
「じゃあお大事に……。僕は帰るから。」
「いやよ。駄目……。待ってるのよ。」
 ねえーと云った調子で、鏡の横から、出来るだけ大きく見開いた露わな眼で、彼女は僕の眼に見入ってきた。それに自然とうなずいて、僕はまた腰を据えた。
 美代子の痙攣は度々起った。照代はその度に立っていった。僕はそこの長火鉢と箪笥との間に、メリンスの座布団を二枚並べて小さく寝そべった。ばあさんが掻巻《かいまき》を着せてくれた。そして、木目の飛出した天井板や、ごてごて飾り立てられた真赤に見える神棚や、お師匠さんの手に渡ってる照代の長い髪や、どこからかの電話や、美代子の痙攣や、赤っぽい電燈の光や、そんなものを断片的に意識しながら、出来るだけ縮こまってると、いつのまにかうとうとと眠ったのだった。
 眼を覚すと、長火鉢の向うから、照代がにこにこ笑っていた。丸髷に結っていた。
「どう、似合って。」
 僕はただ不思議な気持で見守った。
「いいのよ。今晩はどうせお座敷に出られやしないんだから。それで、気が変っちゃって、こんな風にしてみたの。」
 艶やかな鬢をかしげて見せた時、僕は急に左手を打振ってどたんどたんとやった。
「痛い……おう痛い……。」
「しびれ。まあ大袈裟に、美代ちゃんより辛棒がないのね。」
 彼女が笑ったので、いやその拍子に気付いたのだが、隣の室から、皆が僕の方を見ていた。見馴れない丸髷の年増と、お座敷着をきた照次と、それから美代子までが、ぽーっと上気した細面の顔を枕につけて、無心の眼付でこちらを見ていた。そして皆一度に、いらっしゃいと挨拶したような風だった。
 僕はすっかりてれてしまって、坐り直して眼をこすった。それから火鉢越しに乗り出して声をひそめた。
「誰、あの人。」
「知らないの。おっかさんよ。そら、あたしが元一緒にいた……。」
「ああ……。」
「ね、どっかへいきましょうか。……連れてって頂戴。」
「だって……。」
「いきましょうよ、ね。」
 そして彼女はまた、こんどは近々と、一杯見開いた露わな眼で見入ってきた。
「だってさ……病人があるのに……。そんな薄情な人は知らないよ。」
「いいわよ……ね、いきましょう。おっかさんと美代ちゃんが、いいと云ったら、いいでしょう。」
 だが、その時また、美代子は痙攣を起した。照代は飛んでいった。
「お味噌の灸を[#「灸を」は底本では「炙を」]すえると、じきになおってしまうんだがね。」
 おっかさんはそんなことを云って、痛みの去った美代子に向って、熱くも何ともないからと説き勤めた。ばあやさんが小皿に漉味噌を持って来た。おっかさんはそれで、昔の二銭銅貨くらいの平ったい団子を拵え、それから艾《もぐさ》をまるめて小指の先くらいのものを幾つも拵えた。
「これをお臍の上にすえるんだよ。お味噌が熱くなるまで辛棒するんだよ。」
 僕は襖を閉め切った。
 味噌灸が[#「味噌灸が」は底本では「味噌炙が」]初まった。が途中で、美代子は泣き出した。
「いやよ、もうそんなものはいや。痛い……うーむ……痛いわ……冷くって。」
 皆でそれを押えつけて、それからひっそりとなった。
 暫くたった。ぱっと襖が開いた。照代がつっ立っていた。
「何をぼんやりしてるの。」
 ちらと見ると、おっかさんは味噌の団子と艾の団子とを両手に持っていた。僕は不意に可笑しくなった。
「そりゃあ冷いでしょうな。お臍の上に味噌をのっけては。」
「ですからね、」とおっかさんは真顔だった、「熱くなるまで辛棒すれば、じきになおるんですがね。」

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