。」
「そうさ、心はいつまでも子供、それを置いてきぼりにして、身体だけが大人になったものだから、弱ってるんだ。ああつまらない。実につまらない。」
わざと大きく溜息をしてみせた合間に、母は真顔で云った。
「もうお止しなさい、そんな話は。」
僕ははっとして、真顔になった。がお前はまだ怒っていたね……仲直りのしるしに僕と握手をして、※[#「魚+昜」、489−上−14]をしゃぶって、それからあの、禿頭の子供の話かなんかで笑い出すまでは。
敏子
その一晩を、僕は台なしにしてしまったような気がするのだ。ああいう事情の下にあったああいう静かな晩は、そう滅多にあるものじゃない。それを僕は何という気持で過してしまったのだろう。またお前だって……。
僕と一緒に海で飛びはねたお前じゃないか。音楽を聴きながら一緒に涙ぐんだお前じゃないか。僕の詩をいつもさんざんやっつけたお前じゃないか。母には話せないような芸者の話を僕がするのを、口を尖らして聞いた後で、だから兄さんは汚らわしいと云いながら晴々と笑ってたお前じゃないか。もっと卒直にあの晩を過せなかったのかね……。そりゃあ僕も、卒直じゃなかった。だけど本当は、お前と一緒に、朗かに笑いたかったし、しみじみと泣きたかったのだ。
考えてみると、僕はあの晩を毒したばかりではなく、家の中の空気全体をも毒してたかも知れないし、お前の心をも毒してたかも知れない。僕は何という毒虫なんだ。
然し、それもこれも、何の罪であるかは、ただ知る者ぞ知るさ。加藤さんへ向って、母が愈々承諾の返事をすることになった時、僕はやっと重荷を下したような気がした。変梃な心理だ。そして、ほっと息がつけるその気持から、一寸旅をした。
少し急な書き物があるから旅をする、とそう僕は母にもお前にも云った。体裁にだけ原稿用紙を持って出た。が仕事なんかありゃあしなかったんだ。……そして、三日目に僕は帰って来た。
その間に、僕が何をしてきたかと思うかね。これからそれを聞かしてあげよう。
家を出ると、あの通り、晴れやかな小春日和だったろう。僕はその大空を仰いで、いいなあ……と心に叫んだものだ。そして、停車場へ行くのを止めて、照代の家へ行ってみようと思った。
お前は恋するなら恋するがいい、ちっぽけな家庭を構えたけりゃあ構えるがいい。だがこの俺は、そんななかに巻きこまれてたまるものか。自由なそして心は潔白な彷徨を続けてみせるぞ。日の光が美しく輝いてるじゃないか。
まあ云わばそんな風な気持から、籠を出た小鳥のように勝手な真似がしてみたくなった。で友人のところに原稿用紙を捨てて、少しぶらついて時間をつぶして、それから照代の家へ行ってみた。
敏子
僕が照代の家にまで遊びに行くからといって、旦那気取りで澄しこんでるとか、或は二人の間が――心のつながりが――おかしいとか、そんなことを考えちゃいけない。僕はただ、お座敷で彼女に逢うよりも、彼女の家に五分間も黙って坐りこんでる方がよっぽど面白いんだ。お互に素面なんだからね。何でもない一寸したことから、そんな風になってしまったんだ。
ところが、その日は大変な目に逢っちゃった。
もう電気がきてたから、五時頃かと思うが照代はまだ髪を結いかけてるところだった。肩に白布をあててその上に梳きかけの髪を乱したまま、入口まで立ってきた。
「まあー、」それから一寸睥む真似をして、「今日を幾日だと思ってるの。」
「幾日……何のことだい、そいつあ。」
「あら、もう忘れたの。そら……稲毛……。」
「ああ、そんなこともあったっけ。なるほど、君は頭がいいよ、物を忘れない。」
「あれだ。」
というのは、実は何かの話のついでに、こんどの日曜に――日曜が笑わせるよ――日曜あたりに、稲毛へ遊びに行こうと、そんなでたらめな約束をしていた。その日曜をもう十日余りも通りこしていた。
室へ通って、彼女が改めて挨拶するのに応じた時、隣りの室に寝てる女の顔が、開いた襖の間から、黒ずんだ畳と赤い布団とその白い襟との中に、仄白く浮出して見えた。
「どうしたんだい。」
「美代ちゃんよ。病気なの。」
見ると、美代子はすやすや眠ってるらしかった。裾の方で、ばあやさんが火鉢で何か煮立てていた。
「悪いのかい。」
「お午頃から急になんですけれど、大丈夫よ。……待ってて頂戴。今髪をあげてしまうから。」
長火鉢の前で、僕は煙草を吸い初めた。その煙草が一本終らないうちに、美代子は突然うーむと苦しみ初めた。照代は飛んでいった。
「仰向いちゃ駄目……つっ伏すのよ……そう……いいかい……。」
呻り声の間に痛い痛いと訴える美代子を、照代とばあやさんとは上からのしかかって、腰のあたりを力一杯押えつけた。
「ねえさん、注射を頼んでよ、後生だから……。おう痛い……痛
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング