とめました。
「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍らしいよい帽子だ。これにしよう。いくらだね」
 番頭《ばんとう》はその帽子を手に取って、小首《こくび》を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴《みな》れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損《そん》はないわけですから、とび離れた高い値で売りつけました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。
 悪魔はおかしさをこらえて澄《す》ましてきって[#「澄《す》ましてきって」はママ]いましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑《にざ》やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反《そ》り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。
 やがて紳士は、ある立派な洋食屋《ようしょくや》へはいって昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったとみえて 入口の[#「とみえて 入口の」はママ]釘《くぎ》にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。
 次に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂《にお》いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。
「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……構《かま》うもんか、少し盗み食いをやれ」
 そして悪魔《あくま》は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙《すき》に、皿の中の料理をぺろりと頬張《ほおば》ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。
 紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。
「おかしいな。どうも……」
 次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕をくんで考えこみました。
「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」
 こつんと額《ひたい》を一つ叩いて、それから急いで勘定《かんじょう》をして外に飛び出しました。大事な帽子《ぼうし》を頭にのせることは忘れませんでした。

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