だ若い。いろんなことを為残している。これまで為して来たこと、これから為すべきこと、ぼんやり夢想していたもの、はっきり掴んでいたもの、味いつくしていない多くの喜びや悲しみ、自分自身の肉体と精神、自分自身の生活、自分自身の世界、それら凡てのものは、今俺が死んだらどうなるだろう。闇に呑み込まれてしまうばかりだ。それがどうして悲しまずにいられよう。
A――それら一切のものが、闇に呑まれようとどうしようと、そんなことはどうでも構わない。生きてる間だけ十分に生きてた、という意識だけで俺には十分なのだ。
B――俺が今茲で死んだなら、俺自身に関する一切のものは、永久にこの世から亡びてしまうのだ。幾億万の人間が生れて来ようと、俺自身と同じものは何一つ世に現われはしないだろう。
A――そういう風に唯一無二にこれまで生きてきた、という意識だけで俺には十分なのだ。
B――其処に俺の看病に疲れて眠ってる妻は、俺が死んだらどうなるだろう、それから、子供や、両親も……。皆が俺を頼りにしているのだ。
A――彼等は、俺が死んだら一時悲しみはするだろう。然し俺の身体が清らかな灰になり、石碑の下に納められる時、彼等は生死を超越した神聖な朗かさを、涙のうちに感ずるに違いない。そして俺が亡い後、両親は年老いており、子供は幼いし、妻はか弱い身であるけれども、確に餓死するようなことはなく、自分の力でどうにか生きてゆくだろう。そしてこの、人に頼らず自分の力で生きてゆくということが、他の何物よりもよく、彼等に人生の深い味を味わせるだろう。最もよく生きるということは、最もよく生を味わうということに外ならない。俺はこれまで可なり困難な生活をしてきたお影で、そのことをよく知っている。俺は彼等を愛しているから、彼等に生活の苦しみを与えたくはないが、然し俺の死によって、彼等がよりよきものを得るとすれば、俺は安んじて死んでゆける。
B――お前の見方は、高邁ではあるが残酷だ。俺は彼等に対して、もっと人情の多い愛を持っている。彼等がより深く生きることよりも、より幸福に生きることを、俺は望んでいる。俺の死によって、彼等が如何ばかり深い心の痛手を受けるか、如何ばかり悲しみ悩むか、それを俺は恐れるのだ。俺は彼等を幸福にしてやりたいのだ、生きていて幸福にしてやりたいのだ。
A――それは俺も望まないことはない。然しどうせ死ぬも
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