苦笑を洩らした。
 台所でじゃあじゃあ水の音がしていた。怒った時にはやたらに用をしないではいられない辰代が、夜遅く、他に仕事もあろうに、何か洗濯物をしてるのだった。中村はその音に耳を傾けたが、やけに敷島をすぱすぱ吹かした。それが灰になってしまおうとする頃、奥の重から澄子が出て来た。眼を赤く泣きはらしていた。
「中村さん、どうしたらいいんでしょう?」
 敷島の吸殻を火鉢に投り込んで向き返った中村に、澄子は縋りついていった。
「私恐くって……どうしたらいいかしら。」
「何が?」
 澄子は片手で中村の手を握りしめながら、片手で二階の四畳半を指さした。
「あんな天才には、」と中村は云った、「凡人が近寄っちゃいけないよ。」
「あら、私真面目に云ってるのに!」と澄子は涙声を出した。
「心配しなくてもいいよ。ああいう人には、つっかかってゆくと始末におえない。そっとしてさえおけば、何でもなく済んでしまうことなんだ。」
「だって、私がもとで、お母さんと今井さんとの間が、あんな風に変にこじれたような気がするんですもの。」
「そんなことなら、心配するには及ばないさ。お母さんもあの人も、あんな風の性質《たち》
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