へいらした先刻《さっき》の人のではございませんか。」
今井は見に立って来た。
「そうかも知れません。」
「ではあの人が足駄をはいていったのですよ。私もうっかりしていましたが、あなたお気付きになりませんか。」
「そうですね。……いやそうかも知れません。あの男のしそうなことです。いつか私の傘を黙って持っていったこともありますから。」
「まあ!」
「済みませんでした。」
誰に云うともなくそう云って、今井はまた火鉢の側へ坐り込んで煙草を吹かした。
その落付払った様子が、辰代の癪にさわった。先日の鬱憤もまだ消えずに残ってる所だった。辰代は本気に怒り出した。あんな上等の足駄をあんな男にはいてゆかれるのも勿体なかったし、殊には中村のを無断で掠《さら》ってゆかれたのが忌々しかった。
「あんな男が出入りするあなたのような人を置いていたら、私共でどんな迷惑をするか分りません。まるで泥坊をかかえておくようなものです。」と辰代はつけつけ云った。
「然し彼奴《あいつ》もよっぽど困っていたんでしょうから……。」
「困れば人さまの物を盗んでいったって構わないと云うのでございますか。それであなたは平気でいらっし
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