月の熱い日に、初めて夕立がして、その雨がまたじとじと降り続いてる夕方、洗いざらしの浴衣に短い袴をつけ鳥打帽を被った男が、びしょ濡れになってやって来た。雨の中を板裏の草履で歩いて来たので、背中まで跳泥《はね》が一杯上っていた。辰代はそれを、一度見たような男だとは思ったが、はっきり思い出せなかったので、気がつけば放っておけない気性から、袴だけ脱がして、火に乾かして泥を落してやった。そして彼は、夕飯を食って、袴をつけて、雨がまだ少し降ってる中を、緑に礼も云わずに帰っていった。辰代はわざと、傘も貸してやらなかった。今井ももう、自分の傘を持ってはいなかった。
 するとその晩、中村が一寸外出しかけると、足駄が見えなかった。何処を探しても見付からなかった。確かにその足駄は、辰代が昼間洗い清めて、裏口に干していたのを、夕立の時慌てて取込んで、玄関に置きっ放しにした筈だった。そう思って彼女は、なお玄関の土間をよく見ると、隅の方に板裏の汚れ草履が脱ぎ捨ててあった。あの男が足駄をはいていったに違いなかった。
 丁度今井が玄関の茶の間に坐っていたので、辰代はその方へ急き込んで尋ねた。
「この草履は、あなたの所
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