一々雑巾をかけた。それが済むと、もう夕食の時間になっていた。
食事中に辰代はふと思い出して云った。
「電気会社へ行ってこなければなりませんね。」
「どうしてなの。」
「あの人が来て早々から、電気がなくては困るでしょうよ。」
「いやだ、お母さんは。電気はつけ放しじゃありませんか。」
「そうでしたかしら。」
それでも彼女は、二階へ上って見て来なければ安堵しなかった。
卒業したばかりの若い医学士で、二階の八畳を借りてる中村が、病院から帰って来て、和服にくつろいで、玄関の茶の間で煙草を吹かしてる時、そして、辰代が澄子に手伝わして、台所の後片付けをやってる時、大学生は引越して来た。布団の包みと柳行李を一つと白木の机、それだけの荷物をつんだ車の後から、一人でてくてく歩いて来た。
「今日から御厄介になります。」
形《かた》ばかりに膝をついて、誰へともなく云ってから、彼はすぐに荷物を二階へ運び初めた。辰代はそれを手伝って、なおその上に、室の中の整理を手伝おうとした。押入も畳もすっかり雑巾がけをしておいたこと、押入の中には新聞紙を敷いといたから、その上にそっと荷物をのせること、机は窓の下に据えるがいいこと、などといろんな注意をして、今にも自分から荷物へ手をつけそうにした。大学生はその親切を却って迷惑がってる様子で、しまいには坐り直して云った。
「有難うございました。後は自分でしますから、どうか構わないでおいて下さい。」
「それでは、」と辰代は素直に応じて、「少しお片付きになりましたら、階下《した》においで下さいませ。お茶でもおいれ致しますから。手前共はこういう風でございまして、何にもお構い出来ません代りに、家の者同様に思って隔てなくして頂きます方が宜しいんでございます。」
「ええ、どうぞ。」と彼は云った。
その可笑しな挨拶には気にも留めないで、辰代は階段を下りていった。
階下《した》では、澄子が中村に向って、昼間のことを話してきかしていた。そこへ辰代はいきなり横合から云い出した。
「大学生にしては、随分荷物の少い方ですね。」
「だって、」澄子が応じた、「苦学をしてるとか仰言ってたじゃありませんか。」
「でもねえ、いくら何だって、本箱の一つくらいありそうなものですがね。」
「本箱は頭の中にしまっとく方がいいですよ。」と中村が云った。
「あんまり荷物が少なすぎますよ。」
辰代は自分一人の繰言をしながら、台所へやっていった。そして残りの用を済し、何か繕い物を持出してきて、室の隅に蹲った。
澄子はまた話の続きを初めていた。大学生とも一人の学生との応対の所になると、彼女と中村とは、はっと気付いて口を噤まねばならなかったほど、愉快な高笑いを洩らした。
「私あの方を、」と澄子は云った、「まるっきりの田舎者か、それとも偉い天才か、どちらかと思ってよ。」
「そうだね。」そして中村は考え深そうな眼付をした。「わざと衒っているのじゃないかしら。」
「いいえ、ありのままよ。衒うことなんか、これっぱかしも出来そうにない人だわ。」
「もしそうだったら、その変梃なのが正直な所だったら、澄ちゃんが云うように天才かも知れないね。」
「どうして?」
そこで中村は、医学上の見地から天才というものを解釈して、天才とは結局、頭脳の一部分が極度に発達して、他の部分が萎縮してしまってる、一種の不具者だとした。澄子はそれに反対して、天才にもやはり立派な人格者がいると云い、その例に、トルストイやナポレオンを持ち出した。中村はそれを打消して、そう思うのは遠く離れて見るからだと云い、近寄って見ると天才は皆不具者だと説いた。
「一番いい例は、二階のあの人だね。近く寄って見るから変梃に見えるので、遠く離れると立派な人格者に見えるものだよ。」
「そんなことないわ。」
「じゃあ澄ちゃんは、あの立派な天才を、天才ではないと云うのかい。」
澄子は眼をくるりとさしたが、瞬間に、手を挙げて打とうとした。
「まあ憎らしい!」
そのはずみに、火鉢の鉄瓶を危く引っくり返そうとした。
針仕事の上に首を垂れて、こくりこくりやっていた辰代が、喫驚して眼を開いた。
「何をしてるんですよ!」
澄子が笑い出したので、彼女ははっきり眼を覚してしまった。
「お二階の、あの方は?」
それで初めて気がついて、皆は耳を澄してみた。二階はひっそりと静まり返って、ことりとの物音もしなかった。
「そうそう、まだお茶も出さないで……。」
辰代は慌て気味に茶菓子を用意して、二階の四畳半に上っていった。
すると大学生は荷物を運び込んだままの室の中で、布団の包みに頭をもたせ、仰向に寝そべって、まじまじと天井を見つめていた。
二
斯くて今井梯二は、南に縁側があり東に腰高な窓がある、その四畳半の室に落ち着いた。
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