そして翌朝先ず第一に白木の机をあちこちへ持ち廻って、結局それを窓の下に据えた。この白木の机について、可なりたってから、彼は澄子へこう云った。
「机というものは学生にとっては、最も神聖なものであるべきです。だから私は白木の机を使ってるんです。普通のものは、どれもみな何かが塗ってあります。よく紫檀の机や何かで納まり返ってる者もありますが、紫檀は最もひどいごまかしもので、あれにはみな色が塗ってあるんです。そして生地《きじ》の色らしく見えるのがなおいけません。私のこの白木の机だけは、天然自然の生地のままで、どんなことをしても剥げるということがありません。」
「だって、」と澄子は微笑みながら云った、「あなたはそれを毎日拭いていらっしゃるじゃないの。やっぱりごまかしじゃありませんか。」
「磨きこむのとごまかしとは違います。私は自然を磨きこんでるのです。」
 そして彼は絹のぼろ布で、毎日必ず一回は、白木の机をきゅっきゅっと拭き込んだ。
 さてその朝、机を窓の下に程よく据えてしまうと、次に柳行李の蓋を開けた。中には、四五枚の着物と、幾冊かの書物と、アルミの鍋と、大きなボール箱とがあった。ボール箱の中には、砂糖とパンとがはいっていた。
 午《ひる》と晩とを、彼はパンと牛乳とですごした。所が牛乳は、辰代が台所の瓦斯で沸かしてくれたので、アルミの鍋は押入の中に投り出されたままになった。お茶はいつでも玄関の茶の間にあったが、彼は辰代が貸してくれた火鉢の鉄瓶から、湯ばかり飲んでいた。その代り、一週に二度くらいは、近くの店から西洋料理や蒲焼などを取って貰った。
「御馳走は、」と彼は云った、「のべつに食べるものではありません。平素粗食をしていて稀に食べると、それがすっかり消化されて、全部身体の栄養になるんです。いつも御馳走ばかり食べてると、胃袋がそれに馴れきって、素通りさせてしまいます。それで、旨い物ばかり食べてる者には粗食が非常に栄養になると同じに、私みたいにパンばかり噛ってる者には、時々の旨い料理が非常に栄養になるんです。胃袋という奴ほど珍しもの好きはありません。」
 然し、そういう彼の生活を辰代は不経済極まるものだと思った。そしていろいろ経済の途を説いてきかしたが、彼はただ笑ってるばかりだった。
「経済法なんて、人間を愚かにするばかりです。」と彼は云った。
 それならそれでいいと、辰代は思った。実際、彼にそれだけのお金があるのなら、何をしようと彼の勝手だった。けれども、ただ一つ、辰代も我慢しかねることがあった。
 今井の所へは滅多に友人も来なかったが、それでも時々、怪しい風体の者がやって来た。髪を長く伸していたり、または一分刈りに刈り込んでいたり、髯をもじゃもじゃに生やしていたりする、同年配の青年等で、狡猾とか陰険とかいう風貌ではなかったが、少しばかりの朴訥さの見える図々しさを具えていて、それが大抵、雨の降る夜更けなどに訪れてきた。雨の中を傘もささずにやってきて、霽れ間を待ちながら、自分の濡れた着物と今井の乾いた着物とを、着代えては帰っていった。そしてそのまま、いつまでたっても着物を返しに来なかった。夜更けてやって来る者は、よく腹が空いてると云っては、何か食べる物を取寄せて貰った。中には翌朝までいて、飯を食ってゆく者もあった。
「食べるものくらいは、どうにでもなりますが、」と辰代は憤慨の調子で云った、「こんなびしょ濡れの着物を、あなたはどうなさいますか。それも後で取代えにでも来れば宜しいんですが、着て行きっきりですもの。こないだも、あなたの足駄をはいていって、その上御丁寧にも、自分の駒下駄は新聞に包んで持っていって、そのまま姿も見せないでございませんか。こんな風だったら、今にあなたは身体一つになっておしまいなさいますよ。」
「だって、みんな私の所を当にして来るんですからね。」と今井は云った。
「そんなに気がお弱いから、あなたはつけ込まれるんでございますよ。第一、他人の物を当にして来るって法がありましょうか。自分の物も他人の物も区別しないようになりましたら、世の中に働く者はありはしません。」
「いえ、彼奴《あいつ》等だって、相当には働いてるんです。今働いていなくても、これから、後に、大いに働くつもりでいるのです。それで取返しがつくじゃありませんか。」
「取返しがつきますって! そんなことを云ってらっしゃるうちに、あなた御自身はどうなります? 今に何もかも持ってゆかれてしまうではございませんか。」
「なあに私は、こうしていさえすれば、どんなことがあってもへこたれはしません。意志がしっかりしていますから。」
 辰代は呆れ返ったように相手の顔を見つめた。そしてやがて云った。
「あなたくらい分らない方はありません。私がこんなに心配していますのに、当のあなたがそ
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