るんですか。」
「私はまだ借りるとも借りないとも云いやしません。」
「こちらでもまだ、貸すとも貸さないとも云ってやしません。ただその前に、君の意志をはっきり聞いておきたいんです。」
「一体あなたは、此処の家の方ですか。」
「いや……一寸知り合いの者です。」
「それじゃ、御主人は?」
「不在です。だから私が代りにお話してるんです。」
 辰代は襖の影から一歩踏み出しかけたが、学生の言葉に喫驚して、また身体を引籠めてしまった。
「それではまた来ます。」と向うの男は云った。
「そして室はどうするんです?」
「考えてからにします。」
「其処で考えたらいいでしょう。何もむずかしいことではないんですから。」
「じゃあ借りません。」
「では破約しますね。」
「破約ですって……私はまだ借りると約束した覚えはありません。」
「そんならそれでいいです。お帰りなすって構いません。」
「そうですか。」
 そして手荒く閉める格子の音が聞えたので、辰代は何ということもなしに、慌てて飛んで出た。学生は平気で振向いた。
「やあ、すっかり聞いていられたんですか。」
 辰代は表の方を覗き見ながら云った。
「あなたあんなことを!」
「なあに構うもんですか。あんなあやふやな奴は駄目ですよ。借りるならどんなことがあっても借りる、借りないなら断じて借りない、という風にはっきりしていなければいけません。あんな意志の弱い煮えきらない者をおかれても、碌なことはありません。」
 辰代は仕方なしに腰を下してみたが、それでも心が落付かなくて、また立上って奥の室へはいっていった。其処には澄子がくすくす笑っていた。それを此度は辰代の方が、台所へ引張っていった。
「何を笑ってるのですよ!……どうしましょう?」
「あの人にお室を貸したらいいじゃありませんか。」
「でもねえ、あんなでは……。」
「随分図々しい人だけれど、あの人のは、図々しさを通り越して滑稽だわ。」
 そして澄子はまたくすくす笑い出した。
「笑いごとではありませんよ、あんな人だから、またどんなことを仕出かすか分りはしません。何とか云って断ってしまう工夫はないでしょうかね。」
「大丈夫よ。あれで案外質朴な人かも知れないわ。もし変なことになったら、中村さんにでも伯父さんにでも云って逐い出してしまったらいいじゃありませんか。」
「それもそうですね。」
 そして辰代は恐る恐る出ていった。見ると、学生は首を垂れて考え込んでいた。その顔をひょいと挙げて、辰代の視線にぶつかると、すぐに眼を外らして、いきなり一つお辞儀をした。
「私は何か悪いことをしたんでしょうか。悪いことをしたんでしたら、いくらでも謝ります。」
「いいえ、そんなわけではございませんが……。」
 辰代は口籠りながら奥の室を顧みた。
「それでは私に室を貸して頂けますでしょうか。」
 その懇願するような眼付を見て、辰代は心の据え場に迷った。そして助けをかりるような気持で、奥の室の娘の方へ呼びかけた。
「澄ちゃん、お茶でもおいれなさいよ。」
 澄子が立って来て、お辞儀をすると、学生は眼を見張った。
「あの、どなたかお家の方ですか。」
「娘でございますよ。」
「あそうですか。失礼しました。」
 彼はきちんと坐り直して、とってつけたように低くお辞儀をした。その様子を下目にじろりと見やって、澄子はくくっと忍び笑いをした。辰代はその袖を引張った。
「この方が二階の室を借りたいと仰言るんですが……。」
 云いかけた所を、澄子の笑ってる眼付で見られて、辰代は自分の余《あんま》りな白々しさが胸にきて、文句につまってしまった。それへ向って、学生はまた一つお辞儀をした。
「どうか願います。」
 ぷつりと云い切って、身を固くかしこまったまま、もう身動き一つしなかった。
 暫く沈黙が続いたのを、辰代が漸う口を開いた。
「私共ではこの二人きりで、手不足なものでございますから、何もかも不行届きがちになりますけれど……。」
「なに結構です。それでは今晩参ります。」
「あの今晩すぐに……。」
「ええ。学生の引越しなんか訳はありません。」
 彼はもう立ちかけていた。
「では急ぎますから、失礼します。」
 辰代と澄子とは、彼をぼんやり玄関に見送った。それから障子を閉めきると、辰代はほっと吐息をついた。
「私あんな人は初めてですよ。」
「でも正直そうな人じゃありませんか。少し変ってるけれど、ひょっとすると……あれで天才かも知れないわ。」
 天才という言葉がすぐには腑に落ちかねて、辰代は眼を瞬いた。
「本当に今晩越してくるのでしょうか。」
「あんな人だから、屹度来るに違いないわ。」
「それなら掃除をしておかなければなりませんね。」
 綺麗好きな辰代はすぐに二階の四畳半の掃除にかかった。先ず室を掃き出しておいて、押入や畳に
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