へいらした先刻《さっき》の人のではございませんか。」
今井は見に立って来た。
「そうかも知れません。」
「ではあの人が足駄をはいていったのですよ。私もうっかりしていましたが、あなたお気付きになりませんか。」
「そうですね。……いやそうかも知れません。あの男のしそうなことです。いつか私の傘を黙って持っていったこともありますから。」
「まあ!」
「済みませんでした。」
誰に云うともなくそう云って、今井はまた火鉢の側へ坐り込んで煙草を吹かした。
その落付払った様子が、辰代の癪にさわった。先日の鬱憤もまだ消えずに残ってる所だった。辰代は本気に怒り出した。あんな上等の足駄をあんな男にはいてゆかれるのも勿体なかったし、殊には中村のを無断で掠《さら》ってゆかれたのが忌々しかった。
「あんな男が出入りするあなたのような人を置いていたら、私共でどんな迷惑をするか分りません。まるで泥坊をかかえておくようなものです。」と辰代はつけつけ云った。
「然し彼奴《あいつ》もよっぽど困っていたんでしょうから……。」
「困れば人さまの物を盗んでいったって構わないと云うのでございますか。それであなたは平気でいらっしゃるか知れませんが、私共ではそんなだらしのないことは大嫌いです。」
そして彼女は、傍から中村に宥められても承知しないで、今井の方へにじり寄っていった。
「あなたのような人には、何を申しても応《こた》えがありませんから、もう何にも申しません。明日から、今日からでも、何処へなりといらして下さい。もう私共ではあなたをお世話を致すことは出来ません。」
調子が落付いているだけに本当の憤りの籠ってるその言葉を、ねっとりと今井へ浴びせておいて、それでもまだ足りないかのように、底光りのする眼を今井の顔に見据えた。今井はその顔をぎくりと挙げて、彼女の視線にぶつかると、固くなって息をつめたが、一秒二秒の間を置いて、ぶるっと身震いするように立上った。その時、室の隅っこで呆気に取られていた澄子が、はっとして同時に我を忘れて、いきなりそこへ飛び出して、母を庇うというよりは寧ろ、母の肩に取縋った。
「お母さん!」
「あなたが出る所ではありません。」と云って辰代は、澄子の手を払いのけた。そして今井の方へ一膝進めた。「打《ぶ》つなら打ってごらんなさい。女だと思って馬鹿にして貰いますまいよ。さあ只今からでも、何処へ
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