ば、私の方で出ていってしまいます。……澄ちゃん何をぼんやりしているのですよ。そう云っていらっしゃい。あなたが嫌なら、私がきっぱりと断ってきます。」
「そんなことを云ったって、お母さん……。」
「いえいえ、止して下さい。もう我慢にも私は嫌です。」
 そして彼女は、そこいらの品物に当りちらした。澄子がいくら宥めても駄目だった。中村が帰ってくると、澄子は飛んでいって、訳を――自分にもよく腑に落ちないその顛末を、かいつまんで話してきかした。そして中村と二人で彼女を宥めた。
「またこんなことがあろうものなら、もう此度こそ許しません。」
 そう云って辰代はまだ怒っていた。
 中村は笑いながら澄子の方を顧みた。
「だから、澄ちゃんは用心しなければいけないと、僕が云っといたじゃないか。」
「だって、」と澄子は不平そうに呟いた、「私何も悪いことをしやしないわ。」

     四

 それから一週間とたたないうちに、辰代も本当に我慢しかねることが起った。
 今井の所へは、なお時々怪しげな青年が訪れてきた。飯を食っていったり、下駄をはいていったり傘を持っていったりして、そのままになることが多かった。そして七月の熱い日に、初めて夕立がして、その雨がまたじとじと降り続いてる夕方、洗いざらしの浴衣に短い袴をつけ鳥打帽を被った男が、びしょ濡れになってやって来た。雨の中を板裏の草履で歩いて来たので、背中まで跳泥《はね》が一杯上っていた。辰代はそれを、一度見たような男だとは思ったが、はっきり思い出せなかったので、気がつけば放っておけない気性から、袴だけ脱がして、火に乾かして泥を落してやった。そして彼は、夕飯を食って、袴をつけて、雨がまだ少し降ってる中を、緑に礼も云わずに帰っていった。辰代はわざと、傘も貸してやらなかった。今井ももう、自分の傘を持ってはいなかった。
 するとその晩、中村が一寸外出しかけると、足駄が見えなかった。何処を探しても見付からなかった。確かにその足駄は、辰代が昼間洗い清めて、裏口に干していたのを、夕立の時慌てて取込んで、玄関に置きっ放しにした筈だった。そう思って彼女は、なお玄関の土間をよく見ると、隅の方に板裏の汚れ草履が脱ぎ捨ててあった。あの男が足駄をはいていったに違いなかった。
 丁度今井が玄関の茶の間に坐っていたので、辰代はその方へ急き込んで尋ねた。
「この草履は、あなたの所
前へ 次へ
全42ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング