」
「でもねえ、それは質朴そうないい人らしいですよ。」
「だからお母さんは買い被ってるのよ、あんな質朴があるものですか。お慈悲に室を借りてやるというような見幕で、家の中にまで上り込んできて、図々《づうづう》しいったらありゃあしないわ。お母さんもお母さんですよ、あんな人に上り込まれといて、お菓子まで出すなんて、あんまり人が善すぎるわ。」
「そんなことを云ったって、ああいう風になったのだから、仕方がないではありませんか。」
「いくら仕方がないからって、家に上げて待たせるって法はないわ。もし先《せん》の人が来なくって、晩にでもなったらどうするの。あんな図々しい人だから、明日まで待つと云い出すかも知れないわ。」
「まさか、そんな……。」
「そうでなくっても、もし不良書生の仲間だったらどうするの。」
「そんなこともないでしょうよ。」
「でも分りゃしないわ。」
澄子から説きつけられて、不安な眼付でじっと見られると、辰代の眼も、疑惑の色から不安の色に変ってきた。
「夕方になったら、何とか云って追い帰してしまいましょう。」
早口にそう云い捨てて、辰代はぷいと流し場の方へ下りて、娘に対する、また自分自身に対する、軽い腹立ちまぎれに、がちゃがちゃと用をし初めた。それを見て澄子は、またいつもの癖が初まったなという顔付で、そして素知らぬ風を装って、奥の室の隅っこへ行って、雑誌なんかを繰り拡げた。
所が澄子の杞憂は、それから一時間半もたたないうちに、意外なことのために打消されてしまった。
表の格子戸の音がして、何やら人声がするようだったので、辰代は一寸小首を傾げたが、濡手を拭きながら急いで出て行った。そして玄関の茶の間の入口に呆れたように立ち止った。その姿を見て、澄子も立っていった。先刻の学生が、玄関の障子を二尺ほど開いて、その向うに立っている誰かと対談しているのだった。
「そして君は、」と彼は云っていた。「本気でここの室に落着くつもりですか、それとも、一時かりに越してくるつもりですか、どちらです?」
「なぜですか。」と相手は尋ねた。
「朝一食だけで、午《ひる》と晩とは、自炊をするか他処《よそ》で食べるかしなければならないし、そういう不便を忍んでまで、あの狭い四畳半に落付くというのは、特別な事情のある者ででもなければ、一時の気紛れに過ぎないでしょう。それとも君には、何か特別の事情があ
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