膝を立てようともせずに、黙りこくっていた。
「お国はどちらでいらっしゃいますか。」と、辰代は語の接穂がないので尋ねてみた。
「鹿児島です。」と、彼は答えた。「鹿児島はいい処ですよ。」
 そして彼は自ら進んで、鹿児島の風光明媚を説き出した。どの川の水もみな透明に澄みきっていて、一丈二丈ほどもある淵でさえ、底まで手にとるようで、魚の泳いでるのがはっきり見えて、釣をするのなんか実に愉快である。随って、そういう川の水の流れ込む海が、やはり底まで澄んでいて、魚の姿と一緒に桜島の影の写ってるのが、云いようもないほど綺麗である。
「水という水がすっかり、底まで澄みきってると思えば間違いありません。」と彼は結論した。
「それでは、舟になんか乗りましたら、恐うございましょうね。」
「恐いよりか綺麗です。……勿論、今じゃもう濁ってるかも知れませんが。」
「へえー。」と辰代は云ったきり、一寸挨拶に困ったが、それをうまくごまかした。「そうしますと、もう長くお国へはお帰りになりませんのですか。」
「三四年帰りません。」
「では高等学校もこちらで?」
「いえ、大学にはいって三四年になるんです。来年はもう卒業してやろうかと思っています。いつまでいてもつまらないですから。」
「そうでございますね、早くお卒業なすった方が宜しゅうございますよ。」
 そこで彼がまた黙ってしまったので、辰代はそれをしおに座を立った。
「私はこうしてるのが勝手ですから、どうかお構いなく御用をなすって下さい。」
「それでは御免下さい。」
 中腰でそう云い捨てて辰代が次の室へはいると、襖の影に娘の澄子が、今迄立聞きして居たらしくつっ立っていた。彼女はいきなり母の袂を捉えて、台所の方へ引張っていった。
「あの人変な方ね。」
「どうして?」と、辰代は聞き返した。
「だって、鹿児島では川の水も海の水も澄みきってるって、さんざん話してきかしといて、勿論今ではもう濁ってるかも知れないなんて、そんな云い方があるものでしょうか。ここが少し、」と彼女は頭を指先でつっついて、「どうかしてるんじゃないでしょうか。」
「まあ馬鹿なことを云うものではありません。大学生だというではありませんか、そんなことがあるものですか。」
「大学生だって当にはならないわ。三四年も大学にいるけれど、つまらないから来年は卒業してやるんだなんて、どう考えたって少し変だわ。
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