一度にぐっと引抜いてやった。――自分でお茶をいれて飲むつもりで、今井は茶箪笥から茶の鑵を取り出したが、少し錆のあるその蓋が、なかなか取れなかった。「私が開けてあげるわ、」と澄子が云って、二三度やってみた後、容易く引開けてやった。――箪笥の後ろに落ちた櫛を取るから、手伝ってくれと奥の室に、澄子は今井を呼んできた。そして二人で、二段重ねの箪笥の上の部分を、持ち上げて下しにかかった。それが今井には大変な努力らしかった。箪笥を再び重ねる時には、今井は危くよろけそうだった。澄子は一生懸命に気張りながらも、今井を叱ったり励ましたりして、そして勝誇ったような顔をしていた。――「今井さん指相撲をしましょう、」と云って澄子は手を差出した。今井は一寸躊躇したが、着物の袖口を伸しながら手を出した。そして節の太い頑丈な彼の親指は、反りのよいしなやかな澄子の親指に、何度も他愛なくねじ伏せられてしまった。「それじゃ此度は腕相撲、」と澄子は挑んだ。「よし腕相撲なら負けやしません。」そして彼は居住居を直して、幅広い肩と握り合した手先とに、顔まで渋めて力を籠めたが、澄子のきゃしゃな腕にも余りこたえがなくて、彼女の顔が赤くなる頃には、しなしなと押伏せられてしまった。三度やったが三度とも負けた。「右は駄目です、左でしましょう、」と彼は云った。そして左の腕相撲では、澄子は一たまりもなかった。右手まで手首に添えても、やはり彼にかなわなかった。彼はただにこにこ笑っていた。――或る晩、中村が病院に泊って来ることになってた時、夜遅くなって、裏口に何かしきりに音がした。玄関の茶の間にいた辰代は、うとうと居眠りながらも、耳ざとくそれを聞きつけた。ことことと戸を指先で叩くようなその音は、間を置いてはまた響いてきた。鼠にしては余り根強すぎ、犬にしては余り規則的すぎる、一寸怪しい物音だった。辰代が耳を傾けているのを見て、其処にいた澄子も今井も耳を傾けた。暫くして、「戸締はしてあるでしょうね、」と辰代は不安げに尋ねた。してある筈だと澄子は答えた。「でも何だか怪しいわ。今井さん、見て来て下さらない?」と彼女は云い出した。今井はすぐに立上ったが、奥の室から薄暗い台所の方を覗き込んだばかりで、先へ進もうとはしなかった。「ほんとに意気地《いくじ》なしね、」と澄子は怒ったように云いながら、後から立ってきて、いきなり今井を台所へ押しやり
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