もなく降って、降らなければ陰鬱に空が曇って、何もかもじめじめと汗ばんでいた。今井は縁先に蹲って、その雨脚や曇り空をいつまでも眺めてることがあった。
「今井さんは雨がお好きなの?」と澄子は尋ねた。
「ええ好きです。」と今井は答えた。「雨の降るのを見ていますと、都会の上に雨降る如く、吾が心のうちにも涙降る、というヴェルレーヌの詩を思い出します。」
 澄子は喫驚した顔付で、今井の様子を見守った。
「あなたは詩もお読みなさるの。」
「昔読んだことがあります。夢中になって読み耽ったものです。」
「そう。じゃあ一寸教えて下さらない? 私いくら考えても分らない所があるから。」
 そして彼女は、英語の教科書の中にある短い詩句を持ってきた。今井はそれをすらすらと解釈してきかした。
 澄子はまた意外だという顔付をした。
 その晩彼は中村に云った。
「今井さんはあれで詩人だわ。私喫驚しちゃったの。」
 中村はただふふんといった顔をしてみせた。
「詩の解釈はあなたよりよっぽどお上手よ。」
「それはそうだろう。僕は医者だけれど、あの人は文学者だから。」
 所が、その晩今井が下りて来ると、澄子は試してでもみるような気になって、此度は代数の問題を尋ねてみた。今井は容易く解いてやった。
「私は算術は嫌いですが、」と彼は云った「代数と幾何とは非常に好きです。中学の時に代数で百点貰ったことがありました。」
「じゃあこれから時々教えて頂戴。私数学は嫌で嫌で仕方ないわ。」
「嫌なのより下手なんだろう。」と中村が口を出した。「僕がいくら教えてやっても、さっぱり覚えないんだから。」
「あら、あなたは駄目よ。教え方がぞんざいで、独り合点ばかりなすってて、私がよくのみ込まないのに、先へ先へとお進みなさるんですもの。」
「なあに僕のは天才教育だからさ。」
 そういう中村の眼を見返して、澄子はくすりと笑った。
「こういう凡才を相手だと、骨が折れますよ。」と中村は今井の方に言葉を向けた。
 今井はぼんやり何かを考え込んでいた。それからまた話しかけられても、短い返辞をするきりで、多くは黙っていた。しまいには縁側に立っていって、金魚に見入った。
 その金魚を、今井は自分のもののように大事にし出した。何処から聞いてきたのか、金魚の飼い方をいろいろ述べて、麩なんかをやってはいけないと云った。
「金魚に麩は、人間にお茶のようなも
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