よ。」
今井はぼんやり二人の顔を見比べていたが、ふいに上半身を起しかけた。辰代がそれを引止める間もなく、其処に手をついて頭を下げた。
「有難うございました。」
そして呆気にとられてる二人の前に、はらはらと涙を流した。
「どうなすったのです! 寝ておいでなさらなければいけません。」
きつい調子でそう云いながら、辰代は彼を寝かした。彼はおとなしく頭を枕につけたが、閉じた眼瞼からは涙がにじみ出してきた。それを見て、辰代も澄子も何となしに涙ぐんだ。
暫くすると、今井はまた眼を見開いた。
「まだ夜は明けませんか。」
「もうじきでございますよ。」
それから、二人でなお頭を冷し続けてるうちに、今井は本当に眠ったらしかった。
三
翌日になると、今井は熱が去ってけろりとしていた。それでもまだ顔の色が悪く、何処となく力無げな様子だった。も一日くらい寝ていなければいけない、と辰代は説き勧めたが、今井は曖昧な返辞をしながら、朝から起き上って、そして何をするともなく、室の中にぼんやりしていた。
それから引続いて、今井の様子は変ってきた。朝起き上って皆と顔を合せる時には、必ず丁寧に頭を下げた。晩にはよく茶の間に坐り込んで、雑談の仲間に加わった。縁側の前の三四坪の庭に下り立って、植込の間の蜘蛛の巣を指先でつっ突いたり、またはいつまでも屈み込んで、苔類を一々見調べたりした。台にのってる小さな木の箱に、二三十銭の駄金魚が六七匹飼ってあった。そんなものにまで興味を覚えてきたらしく、麩をやっては眺め入った。そればかりではなく、今迄の粗暴なぎごちない身体つきに、何処となく角がとれて、弱々しいしなをすることがよくあった。頑丈な身体を変にくねくねとさして、指先で頬辺を支えてる様子などは、一寸滑稽に感ぜられた。
「今井さんの様子は、あれから何だか変じゃなくって?」と澄子は母へ云った。
「まだ病気がすっかり癒《なお》りなさらないんでしょう。」と辰代は云った。「表面《うわべ》は癒ったようでも、しんに悪い所があって、それが一度にどっとひどくなることがあるものですよ。注意してあげなければいけません。」
そして彼女はそれとなく、身体の調子や気分の工合を尋ねてみた。
「天気がいけないんです。」と今井はいつも答えた。
実際いやな天気が続いた。梅雨期にはいったせいもあろうが、しつっこい雨が絶え間
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