すかな呻き声が聞えた。辰代は驚いて上っていった。見ると、今井は半ば布団から乗り出し、額にじっとり汗をにじませ、夢現《ゆめうつつ》のうちに呻っていた。身体が燃えるように熱くなって、熱っぽい息をつめながら呻っていた。辰代は狼狽し出した。そして澄子を呼んだ。
「まあ、大変な熱だわ。」と澄子は叫んだ。
「中村さんをお起ししましょうか。」
「でもお母さん、またあんなことになったら……。」
「それもそうですね。どうしましょう?」
「氷で冷したらどうかしら。」
 そして取敢えず、澄子が水手拭で額を冷してやってる間に、辰代は氷を買いに出かけた。もう十二時近くだった。近所の氷屋へ行って、幾度も戸を叩いて、漸く起きてきたのに尋ねると、氷は無くなったとの返辞だった。辰代は口の中で不平をこぼしながら、少し遠くの氷屋へ行きかけたが、懇意な家でさえこうだから……と見切りをつけて、急いで帰ってきた。
 それから辰代と澄子とは、寝もしないで今井の頭を冷してやった。水枕の水も金盥の水も、水道ので初めからそう冷くはなかったが、すぐ湯のようになった。幾度も取代えて来なければならなかった。
 雨はまだしとしと降り続いていた。夜が更けるに随って、雨が霽れてゆくのか、或はその音が闇に呑まれてゆくのか、あたりはしいんと静まり返った。時々呻り声を出したりぼんやり眼を見開いたりする今井の顔を、二人はじっと見守っていた。どうしたことか、天井裏の鼠の音さえしなかった。それにふと気付くと、澄子はぞっと水を浴せられたような気になった。
「あなたはもう寝《やす》んでいらっしゃい。明日《あした》学校があるから。」と辰代は云った。
 澄子はただ頭を振った。低い母の声までが無気味だった。今井さんは死ぬんじゃないかしら、とそんな気もした。辰代が水を取代えに立ってゆくと、彼女は自分でも訳の分らないことを一心に念じながら、今井の額の手拭を平手で押えてやった。ずきんずきん……という音のようなものが、手拭越しに伝わってきた。
 そのうち次第に今井の熱は鎮まってゆくようだった。それでも二人は、夜明け近くまで冷してやった。ごく遠くの方から、かすかなざわめきが起ってきて、寝呆けたような汽笛の音がした。それから暫くたった頃、すやすや眠っていた今井は突然眼を開いてあたりを見廻した。
「お気がつかれましたか。」と辰代は云った。「ひどいお熱でございました
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