彼女は皆の方を向いた。「女給たちを集めて、飲んでいらしたんですって、井上さんと二人で。そしてるうちに、女給の美しいのが一人、もてたのねえ、やたらに島村さんにくっついて、肩にもたれたり、膝にのっかったり、ええ勝手にしろってところよ、あんまりべたべたやるもんだから、島村さん、すっかり怒っちゃって、その女の頬辺を殴ったとか殴らないとか、とにかく大変な剣幕でしたって。あたし、その顔が見たかったわ。見そこなっちゃあいけない……とまあ、そういった場面ね。」
 おけいは揶揄するようにわざと感歎の様子をしたが、島村は澄していた。
「そんなことも、あったかもしれないが、その代り、こんなこともあった。或る晩、酔って歩いていると……。」
 それは、私が一度聞いた話である。酔って歩いていると、街角の、薄暗いところに、若い女が二人立っていた。安カフェーの女給とも、安料理屋の女中とも、どこかの子守女とも、私娼ともつかない、怪しい風体の女で、蒼ざめてむくんだ頬に白粉をぬっていた。その二人の方に、彼は歩みよって、微笑みかけ、言葉をかけ、ソバを奢ってやろうといって、すぐ側のソバ屋へ無理につれこみ、自分は酒を一本飲み、それから彼女たちに五十銭玉を一つずつ握らして、立去っていった。
 それだけの、ばかばかしい話だったが、島村の調子には、冷酷に近いものが籠っていた。
「そんな話、どちらも、何の意味もないじゃないの。」
 そう清子が云ったが、何の反響もなく、誰も黙っていた。島村は杯を取上げた。
「島村さん、飲もう、彼女たちのために杯を挙げよう。」
 宮崎が夢からさめたように大声をだして、銚子を持って立上ったので、その場の沈黙は救われたが、妙に白けた空気は拭いきれなかった。清子は何か癪にさわったように口を噤み、おけいと大西とが冗談を云いあい、長尾は口数少く笑みを含み、宮崎はまた空《くう》を見つめ、そしてそのまま時間がたった――のだか、或はそれが私の眼底に映った一瞬の光景だったのか、よくは分らない。一体酒席のことなどは、明暗交錯して、ちらちらして、見極めがつくものではない。そして私がはっと明瞭な意識に戻った時、はっきり覚えているが、島村と長尾とが低い声で何か話し合っていて、長尾が深い溜息を――たしかに好意的な心配の溜息を――ついた時、島村は少し高い声で云ったのである。
「そんな心配より、金銭が第一の問題だということは、君なんかよく分ってる筈だ。僕は全く困ってるんだ。ここの家にもだいぶ借りがある。どうだい四五百円貸してくれないか。」
 それは皆に聞えたらしく……というよりも、わざわざ聞かせるような調子で……皆その方を見た。私は彼の正面にいたのではっきり見てとったが、彼の顔はその時蒼ざめて、眼がじっと相手を見据えていた。額だけは相変らず、人形のようななまなましさを持っていた。その全体の調子に、云い難い侮蔑が籠っていた。長尾はその侮蔑をまともに受けたに違いない。普通なら冗談として取るに足りない言葉だっただけに、打撃が大きかったのだろう。彼は顔色を変えて、唇を痙攣的に震わした。
「尤も、君には前に相当世話になっているから、そう無理も云えない。気にしないがいいよ。……じゃあ、先に失敬する。」
 更に侮蔑的な微笑を浮べて、島村は立上った。咄嗟のことで、私達はその後姿を見送るだけだった。
 おけいが駆け出していって、表で彼を捉えて、二三言話して、戻ってきた。
「長尾さん、何か気に障ることでも仰言ったの。」
 長尾は頭を振った。
「そうでしょう。ひがみよ。」
 然し僻みでないことは明かで、彼女自身、云ってしまってから顔を赤めた。
 そんなことで、酒の酔いの中に冷い穴があいて、どうにもならなかった。それは一番始末にいけないことだ。長尾と大西とは、賑かに飲み直すんだといって、おけいを誘った。もう十二時近かった。私は最後に残って、餉台にしがみついてる宮崎の相手をしてやった。宮崎よりも、清子の方が酔っていた。しまいにうるさくなったので、一人で帰った。妙なことだが、島村が立去ってから、彼のことが何一つ話に上らなかったことを、私は今になって思い出すのである。皆が心では彼のことをとやかく考えていながら、口には出さなかったものらしい。
 その夜、二時すぎ、宮崎は清子に揺り起された。電燈が一つついてるきりで、店の中は影深く、不気味に静まり返っていた。清子は総毛立った顔をして、震えていた。泊るのか帰るのかと聞いた。料理人と小僧とは隣家の二階に寝起きしていて、もうそちらに行ってるし、小女は眠ってるし、彼女は一人で困っていた。――実は酔いつぶれながらいい加減に指図をし、うとうととし、ふと眼を覚して、困ってるのだった。おけいは……さっき電話で、今晩帰らないと通じてきた。どうせ、長尾さんたちと一緒だもの……。それを宮崎はぼんやり聞き流して、土間の長卓の上の、カーネーションの花を見ていた。燈火と影との合間にあって、仄白く浮出して、ゆらいでるようだった。さし招く……そういう感じが胸にきて、立上ろうとしたが、よろけた。ぞっと寒くなった。清子の二つの眼が、ぽつりと、輝いていた。記憶の断層の中に落込んでいく……。親切な兄さん……そんな言葉を覚えていて? 覚えてる! 妙にしんみりと、涙ぐんで、そして二人は肩を抱き合った。彼女はあらゆるものにいやいやをして頭を振り、彼はじっと眼をつぶった。

     二

 夜遅く、市内電車が無くなったばかりの頃だった。島村と宮崎とは、上野広小路の大通りから、公園の方へ歩いていった。二人とも酔って、だいぶ足が乱れていた。それをゆっくり踏みしめながら、話し続けていた。
「君の気持は嬉しいが、もう間に合うまいよ。」
「え、間に合わないんですって。」
 宮崎は一寸足を止めて、島村を見つめた。島村は振向きもせずに、歩き続けた。
「何事にも時機というものがある。こう云うと、君はまた心配するだろうが、一体、君のその変な杞憂がおかしいよ。単なる金銭問題だろう。金銭問題は、数字上の問題で、小学校の算術だ。そんなことで死ぬ馬鹿があるものか。」
「世間にはいくらもある……。それに、あなたの態度が、まるでめちゃだから……。」
「単に金を借りるのが目的だったら、僕もあんな態度には出ないさ。然し、大体もう駄目だと見極めがついて、こんどはこちらから世間を試してやれという気持になったら、それが当然じゃないか。」
「そして全然駄目だったら……世間があなた自身よりも金の方を大事にするんだったら……どうします。それを僕は……。」
「うむ、分ってる。最後の切札はあるんだ。そうなったら君にも腑に落ちる筈だ。君は、船を焼くという諺を知ってるだろう。船で敵国に上陸して、自分の船を焼き払って退路を断ち、敵地を征服するか戦死するか、どちらかだという、最後の肚《はら》をきめることだ。君は、船を焼くことが出来るか。」
「…………」
「船を焼いてからでなければ、本当に世間を試すことは出来ない。世間を試すつもりで、実は自分自身を試してるだけのことだ。」
「然し、敵地を征服出来なかったら……。」
「試してしまえば、それでもう征服したことになる。征服してから其処が嫌になって、新たに船を拵えて出帆するようなものだ。然しそんなことは、予算にははいらない。」
「予算……。」
「例えば、君の所謂、純粋行為みたいなものだ。純粋行為というのは、無動機の行為とはちがうだろう。だから、あらゆる可能な行為を含むことが出来る。死の行為までも……。」
「そうかも知れません。」
「ところが、死の意慾などというものが、君は人間にあると思うか。死の意慾のないところに、死の行為が為されるとしても、それはもう死の行為ではなくなるだろう。」
「だから、そんな行為はない……。」
「ないけれど、ある。ただ予算にはいっていないだけだ。例えば、君は清子を愛していないと云っていた。もし愛するようになったら、初めから愛していたと云うようになるだろう。予算の立直しだ。」
 宮崎は黙っていた。公園の中は薄暗かったが、新緑の香がほのかに立罩めて、空気は爽かだった。
 宮崎は突然云った。
「もし、僕が彼女を愛していたら、あなたはどう思います。」
「そりゃあ、愛するのは君の自由だが、少し危い。」
「なぜです。」
「ほんとの愛は、世間に対して、闘争形態を取るものだ。然し君には、その力がまだあるまい。力が不足すると、不幸に終るか、それとも……。」
「すっかり云って下さい。」
「死にたくなったりする。然し死んだとて、何にもならない。たとえ君か、彼女か、或は二人とも、死んだとて、ただそれっきりだ。そのために、笹本の酒の味は少しも変りはしない。そのために、おけいの、また長尾や大西の、銚子の数が一つへるわけでもない。」
 島村はちらと宮崎の方を見やった。
「君は、清子をどんな女か……品行についてだよ……知ってるだろうね。」
「知ってるつもりです。」
「ああしたところから引抜くには、容易なことじゃない。おけいのことも、君には分ってる筈だ。」
「それでは……静葉さんはどうです。」
 殆んど憎悪に近い調子だった。然し島村はびくともしなかった。
「それは僕が知ってる。君には分るまい。」
 暫く黙々として歩いてから、島村は云った。
「穢い……その一言でつきる。だから僕は別れの言葉を云ってやるんだ。僕の別れの言葉は、ただ侮蔑だけだ。」
 宮崎は悪寒《おかん》をでも覚えるように、身を震わした。
「別れの言葉を云うだけの力を持つことだ。言葉はなんだっていい。君自身の言葉を一つ探し出せば、それでいいんだ。」
「然し、それがみな幻影だったとしたら……。あなたたちのことは僕は知らない。だが、世の中は穢いものであり、穢い中にこそ本当の人間性があるのだとしたら……どうなるんです。個人主義の理想主義は一種の眼鏡にすぎないとしたら……。」
「君の云うのはよく分る。然しそれは自分の船を焼き捨てない前のことだ。一度船を焼いてからは、個人主義だの、理想主義だの、そんなところにうろついてることは出来ない。もっと切端つまった戦だ。現実と云うものは、見て取られるものではない、戦い取るべきものだ。それが出来なかったら、死ぬより外はないだろう。」
 島村の声の調子は異様に静かだった。宮崎はそれに耳を澄しながら、また足音に聞き入った。じっと足先に眼を落して、いつまでも黙っていた。
「本当に愛するか、憎むか、どちらかだ。中途半端なところは、君の文学に任せておけばいい。」
 宮崎はまだ黙っていた。公園をぬけて、寝静ってる街路に出ると、遠くに犬の声がした。
 宮崎のアパートの前まで来て、島村は立止った。
「気をつけ給え。」
 それきりで、彼は立去っていった。宮崎はそこに佇んで、腕を組んだ。

     三

「笹本」のおけいからばかばかしいことを頼まれて、私は弱った。――宮崎がどうしたことか、毎晩やって来ては酔っ払って仕様がない。一寸立寄って、また夜遅くやって来ることもある。無理に帰そうとすると、乱暴もしかねない剣幕だった。それをまた、清子がいい飲み相手にして、手がつけられない。おけいが外に泊る時には、どこでどう打合せるものか、宮崎を引入れて遅くまで飲み明す。それが毎度のことだ……、私は彼女を眺めた。毎度といっても、それから十日とたってはいなかったのだ。……いいえ、そうじゃないんですよ、と彼女は餉台の上を平手でとんと叩いた。あの時と、それからも一度……それくらい、あたしだって外にいろいろ用があるんじゃありませんか。でも、二度あれば、それでもう沢山。毎度といってもいいでしょう。そりゃあ、変なことはないにしても、困るじゃありませんか。何とか、意見をしてやって下さいません。清子の方はだめ、とてもあたしの云うことなんか聞くものですか。ほんとに困ってるんですよ。何もかも調子が狂ってしまったようで、あたし、くさくさして……。彼女は眉間に深い皺を寄せた。だが、彼女が清子に意見したというのも怪しいものだった。それはとにかく、頼まれた以上、宮崎に何とか注意してやりたかった
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