僕も知っている。あんなに飲み廻っちゃあ、それは当然だ。それから、あの……静葉とかいう芸者ですね、あれと大変深い仲になっているとか、それも分ってる。島村さんと静葉と本当に愛し合おうとどうしようと、そんなことは構わない。ねえ、構わないでしょう。僕は反対はしない。然し、そんなことじゃないんだ。そんなことと全く関係のない、何か別な、僕たちが全然知らないような、何かがあるんじゃないでしょうか。僕には変な予感がするんだ。ねえ、あなたは知ってるでしょう。知ってたら僕に教えて下さい。島村さんは僕が最も尊敬してる人の一人だ。僕の芸術を理解してくれてる人の一人だ。いや、僕の好きな人なんだ。愛してる人と云ってもいい。その人が、この頃、僕の手の届かないところに行ってしまった。何かがあるに違いない。こないだ、酔っ払った時、きたないことはよせと云ってステッキで僕をなぐったことがある。その、きたないことっていうのが、全然肉体的の意味なんだ。だが、僕のどこが一体きたないんだ。僕の肉体のどこがきたないんだ。ねえ、どこがきたないんです。はっきり云って貰おうじゃありませんか。僕の身体がきたないとすれば、静葉の体臭のしみこんでる島村さんの身体なんか、もっときたないじゃないか。然し僕は、そんなことは問題にはしない。問題は……つまり、肉体的にきたないなんてことを云う、その言葉が、ばかに精神的だというところにある。肉体的なことについて精神的な云い方をする、そこが問題だ。たしかに、島村さんはどうかしている。何かあるんだ。近頃、小説を書いてるというじゃありませんか。」
 この最後の一句を、宮崎は声をひそめて、さも重大事らしくゆっくり云った。そして口を噤んだ。私はばかばかしくなった。島村が小説を書こうと書くまいと、そんなことこそ、どうでもいいことだった。それに第一、島村は時々文芸批評なんか書くことはあっても、あの哲学的な理知的な頭で、どうして小説なんか書けるものではない。彼が小説を書いてるとか、そしてそれにさも重大な意味があるらしく考えたりするのは、小説家たる宮崎の空想にすぎない、と私は思った。だが宮崎は、そのことを私によく考えて貰いたいとでもいうように、そして自分でも考えながら、暫く口を噤んでいたが、またふいに云い出した。
「たしかに、島村さんには、何かあるにちがいない。それだから、僕のことだって誤解してるんだ。僕がいつ、不潔なことをしたか、さあそれを証明して貰いたいものだ。僕が清子を愛してるかどうか、それを証明して貰いたいものだ。行こう……。事実が証明してくれる。さあ、笹本に行こう……。」
 そんなわけで、私と宮崎とは遅くなってから「笹本」に行った。行ってみると、長尾と大西とが奥の室で飲んでいた。いつもの例で、一緒になってまた飲みだしたのである。
 茲で少し云っておきたいのは、「笹本」のお上さんのことである。彼女は本名かどうか分らないが皆から「おけい」と呼ばれていて、三十歳前後に見えるけれど、実は四五歳はもっといってるらしく、肥っているわりに肉がしまって、背の高い一寸見られる姿だった。眼に勝気らしい険があって、笑う時に大きな口が目立った。いつも酔ってるか、または酔ってるふりをしていて、よく饒舌った。芝居、料理屋、待合と、どこへでも誘えばつき合うけれど、始終家へ電話をかけて、懇意な客がきてるとすぐに戻ってきた。意外な人と知り合いだった。いつもふだん、黒襟の着物に丸髷を結っていたが、清子が来てからは、清子に日本髪を結わせ、自分は洋髪に結った。大抵の女は、日本髪より洋髪の方が若々しくなるものだが、彼女は不思議にも、鏝をあてないさっぱりした洋髪の方が、どことなく落付いて、云わばマダムらしく見えるのだった。そういうところに、彼女の顔かたちの特長があるとも云える。洋髪になると共に、彼女の態度には何となく取澄したところが出て来た。清子の外に、店には、頬の赤い少女が一人いた。
 私と宮崎がやってくると、おけいは愛想よく立って来て、饒舌りちらしながら五六杯応酬をして、それから清子と代った。清子はいきなり宮崎のそばにわりこんできた。
「あら、随分飲んでるわね。」
「当り前さ。酒でも飲まなきゃ、やりきれないんだ。」
 大西が、酔眼を据えて、苦笑した。
「それ見ろ、また一人ふえた。実際酒でも飲まなきゃやりきれない、そういう連中が次第に多くなっていくじゃないか。だから僕は、造り酒屋になろうというんだ。今に資本が出来たら、日本一のうまい酒を、日本一に安く飲ましてやる。これが一番効果的な、直接的な、社会奉仕だ。」
 清子はじっと宮崎の方を見てみた。
「何だか……変よ。」
「ああ……僕は逢いたい人があるんだ。」
 宮崎は突然叫びだして、ふらふらと立っていった。帳場でお燗番をしていたおけいのところに行って、身を投げだした。
「僕は逢いたい人があるんだ。」
「おい、宮崎、道化たまねはよせよ。」と大西が向うから呼びかけた。「古風な恋愛のまねごとなんかするなよ。……さけはなみだかためいきか……。」
 歌の調子が皮肉に響いたらしい。宮崎は戻ってきて、飲み始めた。然し、暫くたつと、また思い出した。
「僕は逢いたい人があるんだ。それとも、ないと思うか。」
「あるならあると、はっきり云えよ。逢わしてやろう。僕が引受けた。」
「君が、……へえー、お門違いだ。僕が逢いたいなあ……逢わしてくれる人はここにはいないや。」
 彼は一座を見廻して、それから私の肩へよりかかってきた。
「僕は……静葉……そうだ、静葉さんに逢って見たい。」
 一寸異様な沈黙がおちてきた。ただ、長尾が一人微笑していた。
「静葉に逢いたい……なら、逢おうじゃないか。ここに呼ぼうよ。島村がいなくたって、来るさ。」
「だめよ、およしなさい。」
 清子が、なぜか、むきになってとめた。
「あたし、そんなの嫌いよ。」
「おい宮崎、清ちゃんが、そんなの嫌いだってさ。」と大西が云った。「そんなのが嫌いだってさ。何とか云えよ。」
 私は、肩によりかかって顔を伏せてる宮崎が、泣きだすか叫びだすかしやしないかと、少々もてあましていたが、宮崎はすぐ身を起して、酒を飲み出したので、助った気がした。だが、一座の空気が、どことなく乱れていた。一体、島村は本当に静葉を好きなのか、静葉は本当に島村を好きなのか、そんなことから、話は男女問題に亘っていった。そしてこういう事柄になると、大西が最も自由放埓な意見を吐いた。大西ばかりでなく、凡て酒の上では、男はみな独身者になる。独身の男の話など、茲に誌すにも及ぶまい。然るに、一座のうちで真の独身者である宮崎は、中途から口を噤んで、空《くう》に眼を据えて、酒ばかり飲んでいた。それを相手に、清子がまた酔っていった。そんな話は聞いていられない、聞かないためには、酔うだけだ。そう云って、彼女は大きく叫んだ。おばさん、お銚子下さあい。ふらふらしながら、宮崎と肩を組み合した。ねえ君、飲もう。うん飲もう。細い首の上の大きな島田の髪が、まるで拵え物のように、力なくゆらめいているのを、長尾と大西はぼんやり眺めながら、ばかげた議論をくり拡げていた。何一つ身を入れて為すこともなく、莫大な親の遺産をもてあまし飲みつぶしてる、色白な温容な小肥りの長尾と、表向きは保険会社員だが、あらゆることに首をつきこみたがってる、色の浅黒い筋骨の逞ましい大西とは、好箇の対照だった。だが彼等には共通の取柄があった。人の精神状態は、その生活状態に依るものであり、従ってその経済状態に依るものであるという、本能的な意識と、快楽は一人で味うべきものではなく、大勢で味うべきものだという、放埓な認識とである。そしてそのいずれもが、個人主義の範囲内に止っているので、彼等はやはり酒でも飲まなければやりきれないのであろう。私はこの点を彼等に許してやりたい。それで、彼等が島村のことを危ぶむのも、尤もだと思うのだった。島村の経済上の破綻は、やがてその精神上の破綻となるかも知れないし、彼が我々の間から失踪して、静葉と共に隠れるのは、情意の不健全を証するものかも知れなかった。要するに、彼等はもう島村を信用していなかった。島村はただ没落過程を辿っているものと思われた。そして、斜面を転り落つる石については、ただ見送るより外に方法はない。なまじい、手を出せば、自分の手を傷つけるばかりだ。而も島村はかなり大きな石だった。然し、私は心の底で、まだ島村を信じてるところがあった。それでも、もう随分と匙を投げたくなることがあった。彼はいつも私に借金の奔走を頼むのだった。静葉のことではない、外のことだ、と彼は云ったが、それはどうやら本当らしかった。然し何のために金がいるのかは打明けなかった。そして金額も、時によって大小さまざまだった。その上、いつも期限が切迫していて、一週間以内とか五日以内とかだった。私は自分の知人や彼から名指されたところを奔走して廻った。成功したのは一回きりだった。暫くたつと、彼はまた至急の金策を頼むのだった。不成功に終っても、別に悲観したような顔はしなかった。私には次第に彼の真意が――真相が――分らなくなった。尋ねても、彼はよく説明しなかった。それだけの金があればさっぱりしてしまうんだ、と云うきりだった。最後のは、可なりまとまった金額で、半端ならいらない、十日間のうちに頼む、というので、私はいろいろ物色した揚句、平素疎遠にしてる遠縁の実業家のところへ、極り悪い思いをしながら当ってみたところ、てんで問題にされずに、悲観してるところだった。
 そういう場合だったので、島村が珍らしく……といっても私達の仲間に比べて珍らしく、「笹本」に姿を見せた時、私は不安な予感を覚えた。おけいが大袈裟な迎え方をしたので、奥の室の私達にもすぐ分ったのである。
「なあに、そうでもないけれど、一寸忙しかったから……。」
 落付いた声で島村は云っていた。
「ああそう、丁度よかった。一寸呼んでくれませんか。用があるんだ。あとで飲もう。」
 おけいから呼ばれるまでもなく、私は皆に断って、席を立っていた。土間の長卓の方には、客はなかった。その片隅によりかかって、島村は煙草をふかしていた。私はその顔を見て、異様な感じがした。少し痩せたなと思われるだけだったが、ひどく色艶がわるく、額が妙になまなましく、眼に鋭い光があった。元来彼の容貌は、高い頑丈な鼻を中心に精力的なものを持っていたが、その精力的なものが内に潜んでしまってるようで、額のなまなましい感じと眼の鋭い光とのために、生きた人形という印象を与えた。
「例のことなんだが……。」
 彼は私の顔をじっと見た。私は眼を伏せて、うまくいかなかった旨を答え、心当りもなくなったことを打明けた。彼は落付いた微笑を示した。そこで私は云った、是非必要だというのなら、前に話したことのある方面に二三当ってもみようし、また彼の方で心当りがあるなら、それを全部駆け廻ってみてもよい、とにかく総ざらいをしてみよう……。
「いや、それには及ばない。心配かけてすまなかった。」
 ばかに冷かな調子で、そして彼はまた微笑をもらした。
 奥の室にはいると、大西は冷淡な眼で、長尾は落付いた眼で、私たちを迎えた。清子が飛び上るような声をたてた。
「あら、お一人? 後から来るんでしょう。さっきね、とても逢いたがってた人が……。」
「ばか、何を云ってるんだ、ばかな……。」
 ほんとに怒ったらしい押っ被せる調子で、宮崎は叫んだが、同時に、真赤になった。
 島村は平然と席に就いた。
「暫くぶりだね。」と長尾が云った。「この頃、あんまり飲まないのかい。」
「うむ、出来るだけ飲まないことにしてるんだが……。」
「そうでもないでしょう、島村さん。」と、おけいが銚子をもってわりこんできた。「ちっとうちへもいらっしゃいよ。あんまりよそを歩き廻らないで……。決して、くっついたり、殴られたりするようなことは、しませんから……。」
「なんです、それは……。」
「それ、井上さんと、銀座の何とかいうカフェーで……あれほんとでしょう。こうなんですよ……。」
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング