が、そんなこと、へまに云い出そうものなら、却って結果は悪くなる。私は当惑して、長尾か大西に頼んでは……と云ってみた。おけいは眉根の皺をぐっと深くして、むきになった。そんならいい、あなたには何にも頼みません……。私は彼女の怒った顔を初めて見た。額が狭くて、打震えてる上唇の上に、うすい毛が生えそうだった。
 幸にも、私はその嫌な役目をのがれることが出来た。その頃、私達はたしかに少し荒れていた。その晩も、長尾と私と野口――この野口というのは、放送局に勤めてる男だが、酔うと相撲をとりたくなるという妙な癖があり、ふだんは変にお高く澄しこんでる見栄坊だった――三人で、一騒ぎして、芸者を二人連れて、「笹本」に敬意を表しに来たものである。そして奥の室で飲んでるところに、少し酒気を帯びた静葉が、元気よくとびこんできた。今晩は、おばさあん……。そして私達の方を見ると、つんとしたお辞儀をした。用があるのよ……。彼女はおけいと、何かひそひそ話をしていた。だいぶかかった。
「そんなら、今だっていいわ。呼びましょうか。いらしてるのよ。」
「まあ、この人は……。」
 静葉は電話にかかった。
 私は彼女の方に注意をむけていた。あれきり島村に逢わないので、少々気になっていたのである。注意してると、静葉は島村からことずかって勘定を払いに来たものらしく、またおけいは、島村に逢いたいことがあると頼んだらしい――多分宮崎のことについてだろう。私は肩の荷が軽くなるのを覚えたが、また不安にもなった。
 静葉はやがて私達の方へ来た。彼女はいつ見ても少しも変らなかった。顔のわりに眼も鼻も口も小さいので、少し痩せたらもっと綺麗になるだろうと思われるくらいに肥ってる、大柄なぱっとした女で、あけすけで、影もなく、底もなく、捉えどころがなく、そして朗かで、そのくせ調子に一寸険のある女だった。彼女をよく見ていると、どんなことでもやりかねない危険さが感じられた。
「あたし今日はお客よ。」
 そして彼女は杯を斜に取上げたが、すぐに、他の芸者たちと、そして殊に清子と、内緒話を初めた。
 島村が間もなくやってきた。彼は私達の方を見やって、一寸眉をひそめたが、黙っておけいの方へ行った。だいぶ長く話していた。
 私達の方へ来て、一通り会釈をする時、彼はなぜか顔をほんのり赤らめた。静葉が立上っていって、彼と何か囁き合った。彼は静葉のあとの席に坐った。二室ぶっ通しに使っていたが、狭い室なので、窮屈だった。島村に黙りがちで、煙草ばかり吹かしていた。彼の眼は先達より穏かで、なまなましい額には、淡く血色が出ていたが、何となく病的な疲労の感じがにじんでいた。
 そこへ、おけいが出てきて、一座をまぜっ返してしまった。一座は土間の腰掛の方へまで拡がった。私は何か不安な気持が消えないで、我知らずいろんなことに注意をしていたが、それでも酔っていって、もう記憶は断片的なものに過ぎない。
 清子が静葉にたのんで、煙草を買いにやらしてもらった。どこかで、宮崎に電話でもしたものらしい。
 宮崎が来たのはどれくらいたってだかよく分らないが、彼は一歩ふみこむと、そこに立止ってしまった。彼は眼が凹み、額から頬へかけた肉附がすっきりして、その両者が不調和な対照をなしていた。
「あなたの逢いたい人が来てるわよ。」
 清子は彼を静葉の方に引っぱっていった。どういうものか、二人は初対面だった。
 宮崎は静葉の顔をじっと見た。そしてそれきりだった。
「おい、宮崎君、握手をしよう。」
 島村は彼を方を見やった。
「僕とですか……。」
 宮崎は島村の眼を見入りながら、手を握りしめた。
「清ちゃん、お燗よ。」
 おけいはやたらに清子を使った。彼女は長尾の側に坐って、猫のような手附をしながら、しきりに饒舌りたてていた。
 私は島村に、金の都合がついたのかと聞いた。つかないが、済んだ、と彼は答えた。都合がつかないが済んだ、その言葉が謎のように長く私の耳に残った。
 野口は芸者相手に、サンドウィッチの話をしていた。彼は三十幾種かを知っていた。牡鶏のとさかのはとてもうまいが、拵え方が下手では食えないそうだった。
 宮崎が静葉の膝にすがって泣いていた。訳の分らないことを呟いていた。ふいに、だめよ、と静葉は叫んだ。と同時に、そこは室の上り口で、宮崎の身体は土間に転げ落ちた。なかなか起上らなかった。
「あら、御免なさい、どうかしたの……。だめよ、人の乳をつっつこうとしてさ。」
 あやまるのとおこるのと半分ずつにして、静葉は助け起そうともしなかった。
 宮崎は起き上ると、ふらふらと、島村の首にすがりつきにいった。
「強いね君は……ようし、僕と相撲をとろう。」
 野口の癖が始ってきた。
「およしなさいよ、また……。恐《こわ》いわよ、静葉さんは。向う見ずにひっぱたくんだから。」
 そしてその芸者は、静葉のふざけた口調をまねた。
「失敬なことを、なんですか。」
 野口も一緒に調子をとった。
「失敬なことを、なんですか……失敬なことを、なんですか。」
「では、お先に失敬するわね。」
 静葉は笑いながらそう云って、島村に目配せをした。
 なんだかんだと、いろんなことのあるうちで、私の注意を惹いたのは、島村と静葉との視線が絶えず連絡されてることだった。何かを云い何かをする度毎に、彼等の眼は始終相手に注がれた。その視線は、たとえ如何なる人込みの中でも、如何なる酔狂な振舞の中でも、断ち切られることがないらしく見えた。そして今でも、静葉の目配せを受けると、島村はすぐにうなずいて、それからゆっくり立上った。
 二人はそのまま出て行こうとした。
 真先に気がついたのはおけいだった。彼女は呼びとめた。
「島村さん、どこへいらっしゃるの。」
 島村は向き直っていった。
「外へ出るんです。」
 そして彼は一寸皆を見据えた。額が蒼ざめて、口元に云い難い微笑を浮べていた。何でもない言葉であり、何でもない態度であるだけに、その中に籠ってるものが明かに感ぜられた、一種の挑戦と蔑視とが。殊にその微笑は、打撃の効果を意識してる者のそれだった。緊張した空気が流れた。瞬間に、静葉が云った。
「では、皆さん、失礼……。」
 長く引張った失礼の発音が、その緊張を皮肉なものにした。誰も口を利かなかった。二人は出ていった。
 宮崎が、長卓の上の灰皿を土間に叩きつけた。清子はそれを引止めたが、宮崎はなお、転ってる灰皿の破片を足で蹴散らした。険悪な空気になった。おけいは真蒼な顔をしてつっ立っていた。
「追い出して下さい、乱暴な……。」
 呆気にとられていた野口が云った。
「一体どうしたんですか。」
 清子が一緒になって灰皿の破片を蹴散らしてるのを見て、おけいは歯をくいしばって、酒をぶっかけようとした。
「呆れた人たちだ。」と野口はまたいった。「まるでヒステリーだ。」
「ええ、ヒステリーでしょうよ。」
 おけいはしゃくりあげると同時に、屈みこんで、長尾の肩に顔を伏せた。
 二人の芸者は眼を見張っていた。
 そしてそのまま、潮が引くように、その場は納ったのであるが、そうした情景の底に、捉え難い不安が濃く淀んでいたのである。私はその責を誰にも何物にも着せようとは思わない。ただ、こうした時間を費してる私達の生活の、底をかき廻されたものだとしたい。淋しい酒宴になっていった。冗談口も冴えなかった。私達は無理にも酔おうとした。それから、二人の芸者をひっぱって、また席をかえて飲んだ。おけいはむっつりついて来た。宮崎と清子とが、知らん顔をして酒をのみ続けていた。
 その晩、各自にどうなったかは私の知るところでないが、翌日、「笹本」の二階で、昏々と眠り続けてる宮崎の枕頭に、清子は、根のぬけた乱れ髪のまま、血の気を失った顔で、じっと坐っていた。その耳の下の方に、物にぶっつけた紫色の斑点があった。おけいは、眉間の皺を深く刻んで、よけいな口は一言も利くまいと決心してるかのようだった。髪だけきれいになで上げてるのが目立った。私が電話で呼ばれて行った時にも、宮崎は昏々と眠り続けてるばかりだった。眼が更におち凹んで、額から顔へかけて肉附がすっきり……澄んでると思われるほどで、何の苦痛の表情もなく、身動き一つしなかった。呼び迎えられた医者は、長い間その顔を眺めていたが、静に二日も眠らしておけばいいでしょうと、事もなげに云った。宮崎の懐から、カルモチンの錠剤の壜が見出された。常用していたものと見えて、使用の予想量よりもひどく多分にへっていた。清子は何にも云わなかった。徹夜のつもりだったのが、酔って分らなくなったと、それだけきり引出せなかった。宮崎に自殺の意志があったろうとは思えなかった。然し、全然なかったとも、私には断定出来ない。
 島村はその晩きり、もう「笹本」に来なかった。私達の間からも、殆んど姿を消した。静葉はやはり芸妓に出ていたが、用事をつけて休むことが多かった。然し、彼等については、また他日物語ることにしよう。随分いろいろなことがあるのだから。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1935(昭和10)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング