宮崎はぼんやり聞き流して、土間の長卓の上の、カーネーションの花を見ていた。燈火と影との合間にあって、仄白く浮出して、ゆらいでるようだった。さし招く……そういう感じが胸にきて、立上ろうとしたが、よろけた。ぞっと寒くなった。清子の二つの眼が、ぽつりと、輝いていた。記憶の断層の中に落込んでいく……。親切な兄さん……そんな言葉を覚えていて? 覚えてる! 妙にしんみりと、涙ぐんで、そして二人は肩を抱き合った。彼女はあらゆるものにいやいやをして頭を振り、彼はじっと眼をつぶった。
二
夜遅く、市内電車が無くなったばかりの頃だった。島村と宮崎とは、上野広小路の大通りから、公園の方へ歩いていった。二人とも酔って、だいぶ足が乱れていた。それをゆっくり踏みしめながら、話し続けていた。
「君の気持は嬉しいが、もう間に合うまいよ。」
「え、間に合わないんですって。」
宮崎は一寸足を止めて、島村を見つめた。島村は振向きもせずに、歩き続けた。
「何事にも時機というものがある。こう云うと、君はまた心配するだろうが、一体、君のその変な杞憂がおかしいよ。単なる金銭問題だろう。金銭問題は、数字上の問題で、小学校の算術だ。そんなことで死ぬ馬鹿があるものか。」
「世間にはいくらもある……。それに、あなたの態度が、まるでめちゃだから……。」
「単に金を借りるのが目的だったら、僕もあんな態度には出ないさ。然し、大体もう駄目だと見極めがついて、こんどはこちらから世間を試してやれという気持になったら、それが当然じゃないか。」
「そして全然駄目だったら……世間があなた自身よりも金の方を大事にするんだったら……どうします。それを僕は……。」
「うむ、分ってる。最後の切札はあるんだ。そうなったら君にも腑に落ちる筈だ。君は、船を焼くという諺を知ってるだろう。船で敵国に上陸して、自分の船を焼き払って退路を断ち、敵地を征服するか戦死するか、どちらかだという、最後の肚《はら》をきめることだ。君は、船を焼くことが出来るか。」
「…………」
「船を焼いてからでなければ、本当に世間を試すことは出来ない。世間を試すつもりで、実は自分自身を試してるだけのことだ。」
「然し、敵地を征服出来なかったら……。」
「試してしまえば、それでもう征服したことになる。征服してから其処が嫌になって、新たに船を拵えて出帆するようなものだ。
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