ことは、君なんかよく分ってる筈だ。僕は全く困ってるんだ。ここの家にもだいぶ借りがある。どうだい四五百円貸してくれないか。」
それは皆に聞えたらしく……というよりも、わざわざ聞かせるような調子で……皆その方を見た。私は彼の正面にいたのではっきり見てとったが、彼の顔はその時蒼ざめて、眼がじっと相手を見据えていた。額だけは相変らず、人形のようななまなましさを持っていた。その全体の調子に、云い難い侮蔑が籠っていた。長尾はその侮蔑をまともに受けたに違いない。普通なら冗談として取るに足りない言葉だっただけに、打撃が大きかったのだろう。彼は顔色を変えて、唇を痙攣的に震わした。
「尤も、君には前に相当世話になっているから、そう無理も云えない。気にしないがいいよ。……じゃあ、先に失敬する。」
更に侮蔑的な微笑を浮べて、島村は立上った。咄嗟のことで、私達はその後姿を見送るだけだった。
おけいが駆け出していって、表で彼を捉えて、二三言話して、戻ってきた。
「長尾さん、何か気に障ることでも仰言ったの。」
長尾は頭を振った。
「そうでしょう。ひがみよ。」
然し僻みでないことは明かで、彼女自身、云ってしまってから顔を赤めた。
そんなことで、酒の酔いの中に冷い穴があいて、どうにもならなかった。それは一番始末にいけないことだ。長尾と大西とは、賑かに飲み直すんだといって、おけいを誘った。もう十二時近かった。私は最後に残って、餉台にしがみついてる宮崎の相手をしてやった。宮崎よりも、清子の方が酔っていた。しまいにうるさくなったので、一人で帰った。妙なことだが、島村が立去ってから、彼のことが何一つ話に上らなかったことを、私は今になって思い出すのである。皆が心では彼のことをとやかく考えていながら、口には出さなかったものらしい。
その夜、二時すぎ、宮崎は清子に揺り起された。電燈が一つついてるきりで、店の中は影深く、不気味に静まり返っていた。清子は総毛立った顔をして、震えていた。泊るのか帰るのかと聞いた。料理人と小僧とは隣家の二階に寝起きしていて、もうそちらに行ってるし、小女は眠ってるし、彼女は一人で困っていた。――実は酔いつぶれながらいい加減に指図をし、うとうととし、ふと眼を覚して、困ってるのだった。おけいは……さっき電話で、今晩帰らないと通じてきた。どうせ、長尾さんたちと一緒だもの……。それを
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