文学精神は言う
豊島与志雄

 廃墟のなかに、そしてその上に、打ち建てられるであろう建築は、新らしい様式のものであらねばなるまい。暴風雨や天変地異に堪えるだけの、堅牢さが意図されるだろう。人間の住居にふさわしいほどの、美観が意図されるだろう。居住者に出来る限りの幸福を与えるような、便益さが意図されるだろう。そして外的条件、社会的条件は、如何に文明の程度が低かろうとも、例えば日本に於けるがように電気や水道や瓦斯などは時々停止するものであるという観念から、未だ脱しきれない事態であろうとも、そういう悪条件を克服するだけの設備が考案されるだろう。雨や雪をよく遮断し、煤煙をよく排出し、太陽の光線を最も多く吸収し、清い大気を最もよく流通させるように、窓や壁の配置が考慮されるだろう。而もそれら一切のことが、簡便と雄勁と美とのうちに企画されるだろう。――そういう建築のことを想うのは楽しい。それが廃墟に打ち建てられるということを想うのは、更に楽しい。楽しいばかりでなく、歓びでさえもある。
 だが、そういう建築を造る建築家の精神は、如何なるものであろうか。それは、人間としての矜持ある逞しい美しいものであろう。人間としての矜持とは、つまり、禽獣と異る人間性の自覚である。雀は最も平安な場所を本能的に選んで、そこに巣を造る。猫は最も快適な場所を本能的に選んで、そこに躓って眠る。もしも雀や猫の建築家があるとしたならば、彼は平安快適な場所を指示するだけで事足りるであろう。然し人間の建築家は、指示するだけでは何の役目をも果さない。彼は建築しなければならないのだ。平安快適な場所を造り出さなければならないのだ。この造り出すことそのことに、彼の人間としての矜持がある。そしてこの矜持の自覚には、それ自体に逞ましさと美しさとを含む。すべて何等かの意味の創造的精神には、逞ましさと美しさとがあるのが法則であって、これを失えばもはや創造的精神ではなくなる。
 斯かる精神を、建築家から抽出し、独自の存在と観て、私は今ここに、その復活顕現を翹望するのである。建築とか建築家とかを説いて来たのも、実は比喩であって、この精神を描出する手段に外ならなかった。
 戦争によって、日本の文化一般は殆んど廃墟と化した。戦争は本来、文化を擁護するためにこそ為されるべきものであるが、日本ではそれが逆となった。何故かを問うことはもはや止め
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