するには禁物である。殊に、新たな文化を建設せんとするには禁物である。高きへ高きへと就く思想こそ今や最も必要である。新文化建設への地ならしは甚だ結構だが、それをして高きを崩してすべてを低きに平均せしむるものたらしめず、低きを向上さしてすべてを高きに平均せしむるものたらしめることは、出来ないものであろうか。
 ――これは単に万人を啓蒙することによって得らるるものではない。万人各自の自覚を俟って得らるるものである。それを望むことが無理だとするならば、せめて少数の人々にでもよろしい、この自覚を持って貰いたい。それらの人々によってこそ、新たな文化が建設せらるるであろう。
 以上のような呟く精神は、もはや既に明かな如く、政治的精神ではない。またひろく一般文化的精神でもあるまい。それは単に文学的精神であろう。なぜなら、それは、心の持ち方とか、生活の心構えとか、人格のあり方とか、物の考え方とか、そういうものを中心問題とするからである。そしてそれが説くところの新たな文化の建設というのは、文学の新たな復興創造と解せられるのである。
 この文学的精神は、如何なる事態のなかにも一種の理想主義を把持するし、如何なる現実のうちにも一種の理想主義を見出そうと欲する。茲に一種のと言う所以は、この理想主義が際限もなく伸展するからであり、その先方は文学自体が持つ夢想のなかに没して、それを辿ってゆけば、やがて人間性の破壊にまで到達するかも知れないからである。そしてこの窮極の点に於いて、この精神は逆に、原子爆弾をその象徴とする科学上の新時代に対抗して、人間性を擁護しようと意図する。だがそこに至るまでに、さし当ってこの精神は、あらゆる卑俗を忌み、自己を高貴に保とうとする。その性質は謂わば貴族主義である。
 茲に言う貴族主義とは、社会生活上のそれとは異る。権勢や富や華美など、階級的な特権を意味するのではない。卑俗とは生命力の微弱なことを言い、高貴とは生命力の強健なことを言うのだと、太陽の光のなかで考える、そういう性質を意味するのである。それ故にこの貴族主義者は、精神的に甚だ多欲なのである。あらゆることを見、あらゆることを考え、あらゆることを夢みようとする。神に身を任せると共に、悪魔にも身を任せる。つまり、社会生活上の貴族主義者が衣食住に於いて貪欲放縦であるが如く、この貴族主義者は思惟に於いて貪欲放縦なのである
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