なければならない。往々にして、彼等の容貌は不明瞭であり、その映像しか分らないこともあるが、それでも私は、彼等が通りすぎる廊下の黴くさい匂いを感じ、昼や夜の或る時間に、彼等が玄関から出て行く折、彼等がどんな匂いを嗅ぎ、どんな音を聞くかについては、何一つ知らないことはないのである……。」
 つまり、作品の構想に必要なのは、作中人物についての可見的知識よりも、彼等が動き廻る場所についての明確な実感的知識の方が、より大切だというのである。
 作家の書いた文章などというものは、そのまま迂濶には信じられない。モーリアックの右の文章にも、或は何等かの自己弁護の下心があるやも知れない。けれども、右のような事柄は、実際多くの作家が経験するところであろう。いろいろな作品のなかから、たとえ断片的にせよモデルを探すならば、人物についてよりも、室や家屋や街路や野原や川や海などを含めた広義の場所について、如何に多くのものが見出されることであろう。
 不思議なのは、場所に対する吾々の感覚である。
 私は面白い話を聞いた覚えがある。――寄席の舞台で、即席記憶の実演をやってみせる者が、以前はよくあった。一は煙草、二はビ
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