禁制も、尤もである。
だが、園の方はともかく、池で、六七歳の子供達が、彼等の漁を楽しんでる風景には、微笑ましいものがある。竹切れで釣り糸を垂れたり、手網で岸辺をかきまわしたりして、僅か二三びきの小魚や小蝦を、バケツの中に生捕りにしてる子供たちを見ては、誰も恐らく禁制のことなど忘れて、暫くは立止って笑顔でうち眺めるだろう。
子供等のかかるささやかな漁も、無心に見ておれば、池の濁水がおのずから清浄になってくるような幻覚が起る。小魚や小蝦も鮮鱗の一種であり、鮮鱗の住むところ、その水はおのずから清らかである。――東京市内の池や堀は、みな泥深く水濁っているが、鮮鱗の住むことによって漸く救わるる。例えば、不忍池の濁水は、貸ボートの浮んでることよりも、蓮の青葉の繁茂してることよりも、なお一層、子供等が数ひきの小魚や小蝦をしゃくいあげてくれることによって、生きてる清水の幻想を与える。
就学以前の小さな子供等には、そのささやかなそして微笑ましい漁の戯れを、時には、公共の池で許してもよかろう。悪いのは大人の利得的な密漁である。
不忍池には、手の長い小蝦が沢山いる。傘大の網に餌を設けて、そっと水底に
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