らだ。
 ところで、この眼について私は、その所有者のことでなく、その所在のことを考えたいのである。
 この眼は大体、常識とか概念とか云われるものの中に在る。即ち人間の年齢とか職業とか身分とか人柄とかについて、常識的な概念的な型が出来ており、その型を規準として眼が働くのであろう。
 この眼を、理論的に考究すれば、文学の普遍性ということにまで辿りつけるかも知れない。然し、実際に於て、この眼にばかり頼る時には、作品は卑俗なものに堕して、芸術的香気を失ってしまうのは、何故であろうか。――また、通俗小説などに於けるくだくだしい人物の描写より、例えば酒場の一夕に於けるこの眼の一瞥の方が、よりよく人間を生々と捉えるのは、何故であろうか。
 茲でも、饒舌を止めよう。行き当るところは、創造と現相との問題であり、真実と虚構との問題である。
 文学に疲れた時、大衆の中に交って、更に大衆の中に没して、陶然たる気持で酒杯を挙げながら、逆にこの眼を呼び寄せ、この眼の奥を窺うのも、また楽しいことである。

      J

 公共の園の樹木の枝葉を折り取るべからざる禁制は、尤もである。公共の池の魚鳥を捕うべからざる
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