匹ばかりいるきりである。そのいし亀とくさ亀にしても、初めは、甲羅が美しく均勢のとれたものを吟味して集めたのだが、長く飼養しているうちに、徐々にではあるが勝手な成長をし、また汚れはてて、ごく平凡なものとなってしまった。――その代りよく人に馴れて、手を差出せば指先をしゃぶって、食餌を請求するほどになった。人間にばかりでなく、猫にも馴れてきた。家に二匹の猫がいて、漆黒の親猫の方は、もう亀などを見向きもしないが、純白の仔猫の方は、しばしば亀の囲いの中にはいりこんで、珍らしそうに亀たちをからかっていたが、遂には互に馴れてきて、魚の生肉などを與える[#「與える」は底本では「興える」]時には、同じ皿のものを仔猫と亀と仲よく食べてる始末である。
無心で亀を眺めるのは楽しい。あの重い甲羅を背負って、水中を泳いだり地上を匐ったりしてる時、その緩慢な動作のうちには、少しも齷齪焦躁の気はなく、ひどく悠然たるものがある。だが、日光の直射にじっと甲羅を干しながら、頸を長く伸ばして四辺を眺め、やがてその頸をひっこめて静まり返る時、その熱せられた甲羅の内側には、如何なる夢想がはぐくまれることであろうか。亀を眺める人の方でも、いつしかうつらうつらとして、怪しい夢想に陥ってゆくのである。――斯かる夢想の本体はなかなか捉え難い。それはもはや超俗の哲理である。
通俗には、亀について三様の見解があるようである。三様の寓話がそれを象徴する。
第一の寓話――
イソップ物語の中のもので、兎と亀の競争として世界的に有名である。日本でも特殊の完成した形態を取り、一般に知られている。
亀は兎から歩みのおそいのをあざけられまして、それでは競走をしてみようと申込みました。兎は笑って取合いませんが、亀が強いて云いますので、競走をすることになりました。兎は走り出しましたが、途中で、遊んだり居眠りしたりしました。亀はゆっくりとたゆまず歩き続けました。兎がやがて気がついて、決勝点に駆けつけてきますと、亀はもうそこへ到着していました……。
私見――この話の中の亀は、随分気の強い自惚者か、または相手の性質を見通してる賢者かである。結果としては、勤勉が怠惰に勝つのであるが、亀は果して勤勉かどうか疑問で、ただのそのそ歩き続けてるところだけが亀なのである。
第二の寓話――
支那のものとされているが、ドイツの兎と針鼠の話と同様なものである。
広い河のふちで、亀と烏とが仲よしになりました。ところで、年下の方は年上の方を敬わねばなりませんが、さてどちらが年上かさっぱり分りませんでした。すると亀は、この河を向う岸まで早く渡りついた方を年上にしようと、云いだしました。もとより、烏は空中を飛んでゆき、亀は水中を泳いでゆくのです。そんな競争を、烏は笑いましたが、亀が云い張りますので、とうとうやってみることになりました。二人は岸にならんで、いちどに、烏は飛びだし、亀は泳ぎだしました。烏はまもなく向う岸について、「亀さん、まだかい、」と叫びました。すると、近くの草のなかから、亀が首をだして、「もうここに着いてるよ、」と云いました。――烏はひどくびっくりして、も一度やってみようと云いました。そしてまた競争をしましたが、烏が向う岸について、「亀さん、まだかい、」と叫びますと、近くの草のなかから、亀が首をだして、「もうここに着いてるよ、」と云いました。――烏はなおびっくりして、も一度、これきりも一度、競争をやりなおしてみようと云いました。そしてこんどは、烏は河の真中ほどまで飛んだ時、そこで翼をやすめて、「亀さんまだかい、」と叫びました。すると、河の両方の岸に、同じような亀の首がでて、「もうここに着いてるよ、」と同時に云いました。そして烏から見られると、両方とも、眼をぱちくりやって、首をちぢこめ、こそこそと水の中に隠れてしまいました……。
私見――この話のなかで、亀は狡猾な者となっているが、その狡猾さも一種ユーモラスな気味に包まれ、相手を見くびった不敵な大愚とでも云うべきものが目立つのは、亀がおのずから持つ徳の然らしむる所であろうか。結果から見れば策略の失敗だが、他から見て相似た二匹の亀であるところに、失敗は救われているのである。
第三の寓話――
印度のものであるが、内容はイソップの亀と鷹の話や狐と烏の話などと相通ずるものである。
小さな池に住んでいました一匹の亀が、その池に時々来る二羽の鸛《こうのとり》から、いろいろ旅の面白い話をきかされて、自分でも空を飛んでみたくなりました。そこで、鸛にむりに頼みまして、木の枝を一本もってきてもらい、自分はその真中を口でくわえてぶら下り、枝の両端をそれぞれ鸛がくわえて、そうして空中の旅をすることになりました。「地上におりるまで決して口をあけてはいけませんよ、
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