」と鸛はくれぐれも注意しておきました。――そのようにして、亀は二羽の鸛の間に木の枝に口でぶら下りながら、すばらしい空中の旅を楽しみました。ところが、ある都会の上にさしかかりますと、その珍らしい空の旅人たちを、大勢の人々が見つけて、ひどい騒ぎになりました。――「おかしな亀だ。」――「ふざけた亀だ。」――「亀の王様だな。」――「そうだ、亀の王様だな。」――わいわい騒いでる声が、亀のところまで聞えますし、やがて亀にも、みんなから笑われてることが分りました。亀はとうとう辛抱しきれなくなりまして、「そうだよ、俺は亀の王様だよ、どうして王様ではいけないんだ!」と叫んでやるつもりでしたが、その最初の一言を云うために口をあけたとたんに、木の枝から離れ、まっすぐに地面に落ちて、甲羅もなにもかもくしゃくしゃに砕けてしまいました……。
 私見――この話のなかの亀は、無謀な野心家で、遂には亀らしくもない短気のために身を亡ぼしてしまったが、それはどうでもよく、あの重い身体で空中旅行を夢みるところだけが真実である。その夢想は、小池のふちの石の上で甲羅を干してる折などに、熱くはぐくまれるもので、たとえ身が亡びてもそれだけは残存するであろう。

 私見は、普通の説とは少し距りがあるかも知れない。それも、私が亀を愛するからであろうか。
 亀を静かに見ていると、私自身も亀の仲間入りをした気持になってくる。亀には少しも人を反撥させるものがないのだ。そして私は、今庭にいる以外のもの、少くも東洋近傍にいるものをみな飼いたくなる。まる亀ややま亀やしな亀は固より、海に住む大きなもの、あか海亀やあお海亀をも飼いたく、美しいたいまいをも飼いたい。亀を愛する気持からして、私が今かけてる眼鏡のふちは、たいまいの甲羅からとれる鼈甲にしている。
 すっぽんだけは少し危い。鋭い歯を具えていて、喰いついたなら雷が鳴らなければ離さないと云われている。だが、このすっぽんの親方について、日本にはいろいろの面白い民話がある。その中で一つ、柳田国男氏が書かれているのを、茲に大略借用すれば――

 昔、美濃の大垣から一里ほど東の中津という村で、古池の水をほして、非常に大きなすっぽんを捕ったことがあります。その人が之を肩に荷うて、大垣の町の魚屋へ売りに行きましたところ、途中である大池の堤を通る時、池の中から大きな声で、おい何処へ行くぞいと云うものがありました。すると背中の籠の中から、今日は大垣へ行くわいと答えました。するとまた池の中から、同じ声で、いつ帰るぞと問いました。これにも籠の中から返事をして、いつまでいるものぞ、明日はじきに帰るわいと、大きな声で云いました。男はびっくりして、こういうのが池の主というものであろうかと思いましたが、ここで弱気をだしては大変と考えて、とうとう魚屋へ行って売ってしまいました。そして翌日、また町に行って、魚屋へなにげない顔で立寄ってみますと、そこの主人の話では、あのすっぽんは恐ろしいものであった、刄物がなくては人間でも破れない生簀のなかから、どうして出て行ったか、見えなくなってしまったそうであります。これが恐らくすっぽんの親方であったろうという話であります。

 この話、なんだか本当にありそうな話で、すっぽんと限らず、年経た亀一般にありそうな話である。――私の庭の亀は口は利かないが、食餌を持って行ってやる時など、大きな古いいし亀は、キーキーと細い声で鳴く。亀としては言葉を発してるつもりなのかも知れない。
 亀を愛する気持は、生物の秘奥に一脈相通ずる気持であり、また超俗の気持であり、更に、日向ぼっこをしてる亀に親しむ気持は、熱い夢を静にはぐくむ気持である。――斯く云うこともまた、亀に類した愚かな夢想であろうか。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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