が四百畳、五重が百畳敷、その頂上へ登ったところ、深夜、灯火も消えた闇の中に、瞭然と、十二単衣に緋の袴、薄化粧のあでやかな女性が、刑部明神と名乗って立現われ、さすがの武蔵の武芸を以てしても、それを取押えることが出来ない。斯くすること両三度に及び、武蔵は如何にも残念に心得、思案をこらすうち、夢中に悟るところあって、姫路の城下を去ること三里、法華ヶ嶽という山に、名木薬王樹の一枝を求めに行った。其処ではからずも、世に隠棲している竹光柳風軒に出逢い、姫路の天守閣の怪物は、狐三百歳にして黒狐《こっこ》となり、五百歳にして白狐《びゃっこ》となるという、その黒狐であることを聞き、なお退治の方法を教わり、薬王樹の一枝をも貰い受けた。うち喜んだ武蔵は、姫路の天主閣の頂上に登り、身構えて待ち受けたるところ、深夜忽然として、またもや刑部明神の姿が立現われ、武蔵の方をはったと睨んだ。この時武蔵は少しも騒がず、静かに薬王樹の一枝に手をかけ、竹光柳風軒の教えにより、凡て通力を得た奴は、前に姿を現わすと雖もその本体は後ろに在ることを知る故、前面の刑部姫には眼を止めず、そっと後ろを振向けば、武蔵の身体を離るること、三間ばかりのところ、何やら黒く蹲まっているものがある。さてこそと、武蔵は身を開きざま薬王樹を振被って、気合の声と共に打下した……。
 ――これは勿論、事実ではなく、宮本武蔵黒狐退治の講談の一節の概略である。講談ではあるが、なかなかに面白い。何が面白いかといえば、凡て神通力を得たものは、その偽りの姿を人の前方に現わすと雖も、その本体を常に人の後方に置く、というただその一事である。ただその一事だけではあるが、それだけではあまり素気ないから、少々味をつけて、講談のあら筋をまねてみたのである。この一事の秘訣を知っているのは、ただに神通力を得た妖怪ばかりとは限るまい。文筆の士も往々にして、意地悪い楽しみからそういう悪戯をやることがある。だがそれはほんの余興で、もしそれが常習となる時には、精神はねじけ心情はくらむ。
 然しながら、勝敗を争う方面に於ては、黒狐的方法は、一の戦術として、既に孫呉の昔から闡明されている。当然のことながら、戦争には常にそれが応用されているし、囲碁将棋にも応用されている。――更にこれが、悲しくも、外交にまで応用されるようになったのは、誰の罪であろうか。――更にこれが、一層悲しい
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