然し上述の諸作品に対して、文学的「母線」の欠如を難ずることは、的外れであろう。なぜなら、かかる作品は、在来の文学的観念から脱却しているものであって、文学の様式を破壊するか否かは、問う所でない。
ただ問題は、かかる方法が果して可能なるや否やに在る。そして最大の危険は、意識的構成を避くることに於て、却って、新たな意識的構成――新たな文学の過剰――を招来することにある。プルーストやジョイスの模倣者は、殊に超現実主義の末派は、既にこの危険に陥りつつある。
*
新鮮な魅力は、多くは、「文学的ならざるもの」から来る。プロレタリア文学は、その勃興当時、この新鮮な魅力を多分に持っていた。
「社会のあらゆる現象を先ず経済的見地から見る。随って芸術についても、もろもろの生産力の状態を第一に考察し、それらの生産力の状態によって決定される社会的環境を第二に考察し、それから作者及び作品に及ぶ。」――「プロレタリアートの文学は、階級闘争の武器以外のなにものでもない。」――こういう二つの――芸術観と「指導精神」とを結び合せて考える時、プロレタリア文学は、文学から文学の衣を剥ぎ取ることが必然となる。
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