は、意識的理性の拘束を排し、修辞学的な配慮を拒けて、吾々の精神世界に「存在する」思想そのものの独自な動きを、ひたすらに追窮し、精神本来の働きを自動的に記述しようとする。その結果、作品が理性にとって難解或は不可解なものになろうとも、それは敢て問題とするに足りない。
また、マルセル・プルーストは、内部世界の深淵から、記憶の連鎖を辿って、あらゆるものを掬いあげてき、一杯の茶の香りからさえ、無数の事柄を意識の表面によび戻し、「私」自身を宇宙全体の域にまで拡大する。その結果、一人の少女に出逢って、それに言葉をかけるまでの間に、百頁を満すほどの雑多な事柄を堆積しようとも、それは問題とするに足りない。この「記憶の連鎖」を、ジェームス・ジョイスは「意識の流れ」で置きかえて、過去と現在との境界を更に撤廃し、距離の観念を抹殺して、自由奔放な意識の動きを追求する。その結果、全く句読点のない文句の連続――観念の連続――の四十頁を要求しようとも、それは問題とするに足りない。
トルストイの「戦争と平和」に、構想の欠乏――「母線」を見る明の欠乏――を難じ、事実の堆積に過ぎないと論断することは、或は至当であろう。
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