淋しさをしぼり出して、からのチューブの様になって深いねむりにおちた。
[#ここで字下げ終わり]
右の文章を、人は何と思うであろうか。「太陽は金色のちかちか光る足で飛び込んでき、」「森の中は扇をたたむようにぱたぱたと暗くなり、」「夜は蛭に似た口で昼の暖かさを吸い取り、」「彼女はからのチューブのように眠る、」……そうした描写はともすると反感を懐かせるものであるが、ここでは反って興味を持たせるか、或は少くとも快い微笑を催させる。所以は、文学の過剰から免れているからである。
実は右の文章は、椋鳩十氏の「山窩調」からの引用である。「山窩調」は椋氏が祖父からきいた山窩生活の話を書きとめたものの由で、文学的作意で書かれたものではない。たとい文学的作意が多少あったにせよ、畢竟「文学以前」のもので、文学の過剰などはつゆほどもない。それにも拘らず、否それ故にこそ人を惹きつける特殊の魅力を持っている。――と、こんなことを云うのは、私が文学に食傷しているせいであろうか。
もう一つ実例をもち出してみよう。
横光利一氏の「思い出」を読んだ者に向って、どういう場面が一番頭に残ってるかと尋ねたら、恐らく答えは十人十種であるかも知れない。私の頭には、古賀が自動車の前部に抱きついたところが、一番はっきり残っている。残ってるとは、思い出すことであって、私一個の嗜好か反撥かが加わっているかも知れないが、恐らくあすこを忘れ去る者は少いだろう。
然るに、そこが、どういう風に書かれているか、煩をいとわず引用してみる。――
[#ここから2字下げ]
彼は夏子に店をやめろという代りに、ことごとに突っかかっては殴りつけたり蹴飛ばしたり、夜になって寝静まったころになると、突然飛び起きては、暴れ廻って隣り近所の眼を醒したりしたことは度々だった。それが殆んど毎夜のようにつづき出すと、夏子もだんだん度胸が据り、やがて事実は古賀の疑いそのままになって来た。ある夜、古賀はひどく気崩れのあった場からの帰りの途で、料亭から出て来る夏子の後をこっそりつけていくと、暗い横丁に待っていた五十すぎの立派な紳士が夏子と竝んで歩き出すのを見た。古賀は疑いがそんな風に事実と一致している状態を眼のあたりに見ると、くらくらしてくる中でも、今夜これから自分はどうしたら良いだろうかと考えた。しかし、どちらにしたって多分夏子を殺すか男を殺すかのどちらかにちがいない以上、もうどちらでも同じことだと思った瞬間、不意に、ぎらりと輝いて現れた自動車のヘッドライトを抱きかかえてじっと身をかがめたまま動かずにいる自分に気がついた。
ああ、もう死ぬところだった、そう彼は思って自動車から身を起すと、それではいっそのこともう死んでしまったものとあきらめようと思って、家に帰って来た。
[#ここで字下げ終わり]
これだけである。勿論これには、前後の叙述の重力が加わってはいるけれど、その描写はこれだけである。それがどうして妙に忘れられないのか。特異な事柄のせいであろうか。それもある。が何よりも、ここでは、その特異な事柄が、文学の過剰から免れているから、じかに読者の胸に迫ってくるのである。
横光利一氏の近業には、二つの手法が観取される。一つは、人間の心理の探求に当って、心理の動向の一般的方式を求めんとすることである。もう一つは、人間の運命の推移を、多面的に観察して、その多くの面の綜合によって一の立像組立てんとすることである。前者は[#「である。前者は」は底本では「である前者は」]ややもすれば作品を稀薄にする恐れがあり、後者は作品を濃密にする強みを持つ。そしてこの後者の強みは、「文学以前」のものを大胆にとり入れることによって、更に倍加するであろう。
*
近代文学の※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]きの一つは、文学の過剰を擺脱せんとすることにある。
その最も顕著な例は、新らしい心理的探求の方面に認めらるる。
多くの哲学者や心理学者によって、吾々の精神のうちには広汎なる無意識の世界が存在することを、暗示され指示さるるや、表面的な泡沫的な狭小な意識の世界を去って、その深遠広漠たる無意識の世界へ、文学も直ちにとびかかっていった。そしてここで注意すべきは、在来の心理主義が、行為を説明せんがための心理解剖に止まり、ややもすれば、仮定の上に立つ実験室的研究に陥りがちだったのに反して、新らしい心理主義は、精神内部の無意識の世界――現実の世界――を直接に描写しようとする、大なる野心を抱いたことである。「説明のため」から「描写のため」へのこの飛躍は、創作態度としては、また文学の過剰からぬけ出す一方法でもあった。そこでは、構想や表現方法など、凡て文学的扮装は、もはや第二義的な位置しか占めない。
斯くて、超現実主義
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