土と兵隊」のはじめの方に、或る兵が船の甲板から、千人針の布を海中に落し、泳ぎを全く知らない身でありながら、その布を追っかけて海に飛び込み、布を掴んであっぷあっぷやってるところを、水兵から救いあげられる、という件であるが、あれは事実ではなく、実は、その兵は自ら海に飛びこみはせず、水兵に頼んで千人針の布を拾ってもらったのであると、筆者が語ったそうである。ところで、その事実よりも、千人針の布を追っかけて兵が自ら海中に飛びこんだとする方が、その兵の感情を浮出させるし、敢て云えば真実性を昂揚する。こうした例は、所謂素材主義の作品を仔細に検討してみるならば、至る処に夥しくあるであろう。そしてこれは、全く文学的表現方法、伝統的な方法なのである。
 斯くて、部分的には在来の文学方法が安泰としているのに、作品全体を貫く方面に於て、即ち構想とか現実整理とかの方面に於て、在来の文学方法に疑念が持たれ、それと共に素材の力が前面に押出してきた、というところに問題がある。
 多くの読者は、現在、文学作品を文学として鑑賞しながら読んではいない。そのうちで、いろいろの原因から来る作品の質の低下と相俟って、酷しい現実を
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