え見受けられる。
 然しながら、そういう場合に於いても、彼等の精神の集中力は、作品の中にじかに彼等の魂を乗り移らして、内心の翹望や憤激や情熱をにじみ出させる。前例を追って云えば、世態風俗の撮影のための描写とも見えるバルザックの或る種の作品や、心理の解剖説明のための叙述とも見えるドストエフスキーの或る種の作品にも、なお、作者の生活意欲を離れては説明出来ないような、特殊な進展力を人に伝える熱量を含んでることがある。
 かかる熱量の移植は、文学職工としての技術から来るのではなくて、直接にその「人」から来る。この間の秘密を、アンドレ・ジィドは他事に託して云っている。――

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 文学に於いて、自己を怖れるとは、何というばかげたことであろう。自己を語ること、自己に関心を持つこと、自己を示すことを、怖れるとは。(フローベルの苦難の行の必要は、彼に、この偽れる悲むべき効果を考え出させたのである。)
 パスカルは、モンテーニュに、己を語ると云って叱責した。そしてそれを滑稽な痒がりだとした。しかし、彼自ら、自分の意に反して、そういうことをした時ほど、彼が偉大であったことはない。彼がこ
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