う書くとする。「キリストは人のために自分の血を流した。」と。その彼の言葉は、何等の効果をも持たずして落ちる。だが、「私は」という言葉がはいって来るや否や、すべては生きてくる。そしてこの神が彼の許に来るならば、彼を君僕で呼ぶだろう。「僕は、君のために、こんなに血を流した。」と。この特別の血を、君のために、ブレーズ・パスカルよ……。そうすれば、我々の誰でもが、この讃うべき君僕の言葉使いに、己が理解されていることを感ずるのである。
[#ここで字下げ終わり]

 この君僕の言葉使いは、文学の上では直接には為されない。然しながら、そういう言葉使いが為されてるかどうかは、読者の胸に伝わるものである。そしてそれによって読者は、作者の意欲の性質を感ずるのである。
 これは文学の深奥な道である。然し、感性に訴える、この道は、理性に訴える論説や説教の道よりも、案外短距離である。
 これだけの蛇足を添えて、さて本旨に戻って――文学の曇天は、文学を益々跼蹐させ、衰微させるだけである。それ故、その雲を吹き払い、影を消散せしむるだけの意欲を、文学自身も持たなければならないだろう。



底本:「豊島与志雄著作集 
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