なまた政治的な老衰が、老衰につきものの動脈硬化を来し、その動脈硬化がこの場合には生命硬化となり、統制の側に於ける焦慮と剛直とを伴って、ファッショ的傾向となって現れ、それが全面的に進出してきたこと、そのことではないだろうか。
私は今茲に、政治や社会を論ずるつもりでは毛頭ない。然しながら、文学の曇天を感ずるが故に、その曇天の由って来るところを探ってゆくと、右のようなことを考えざるを得ないのである。
そこで、文学を曇天より救うには、右のような生命硬化から来るファッショ的傾向と絶縁して、それから来る陰欝な影を受けない日向へ、文学を持出すより外に、方法はない。
このことは果して可能であろうか。可能ならしむるためには、現実に対する特種な把握の仕方が必要であろう。そして、社会的存在のみが吾々の意識を決定する唯一のものであるとするならば、問題は簡単になると共に深刻になる。また、文学者の率直赤裸な意識に、或る種の進展性と飛躍性とを認むるならば、問題はわりに手近なものとなると共に複雑になる。だがいずれにしても、憂欝な自由主義者たるだけでは足りないだろう。
晴天の日には南の窓を閉め、曇天の日を喜び、
前へ
次へ
全11ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング