ぶには、インテリ層が火を引かない前に、その自由主義をして、いつまでも自由主義で止まらしむることである。云いかえれば、何等の集団的な根拠をも持たしめず、何等の階級的な色彩をも帯ばしめず、何等の実践的な目的意識をも懐かしめないことである。
 さて、こういう風に遊離した状態に置かれる自由主義は、或る営養不良的な陰欝さを、その相貌の上に漂わせる。営養不良は、食物の不足と空気の不足と、両方から来る。実践的動力の不足は食物の不足であり、権力的統制から来る拘束は空気の不足である。
 近頃吾国に起ってきた自由主義には、右のような陰欝さが観取されないだろうか。少くとも、この自由主義には朗かさが乏しい。
 自由主義は、その本来の気質からして、朗かであるべきである。やがて勃興しようとする気運の先駆者たる溌剌さを、内に萠芽しているべきである。それが、陰欝であるという現状は、たといブールジョアジーの自由主義であるとしても、余りに惨めである。
 この自由主義の陰欝さと、前述の文学の曇天とは、共通のものを持っている。それは同一のものから来る投影の、二つの現れに過ぎない。即ち、何物かが空を蔽い日の光を遮って、大きな影
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング