文学の曇天
豊島与志雄
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近頃、文壇に懐古的気分が起ってきているのが眼につく。新聞雑誌の上に、明治時代の、或は大正初年頃の、さまざまの追憶や思い出が数多く掲載されているようである。
この懐古的気分は、どこから由来したのであろうか。
現在の吾国の文学は、その伝統が明治時代から初まったといっても、過言ではあるまい。少くとも、国民性に根ざす情意の色合を別にして、思惟の形体や表現の形式については、そう云えるであろう。吾々は半ば西洋流に物を考えるようになってしまった、というその半ばが、文学に於いてはまさしく半分だけの重要さを持つものであって、それを引去っては、文学は不具になる。
この伝統の発生時代から、相当の年月――振返って眺めるのに適宜な視距離を得るだけの年月――が経過した。そのために、明治時代の再認識が企図せられ、明治文化の研究が進められるのは、当然のことであろう。
然しながら、現在の懐古的気分は、そうした真面目な研究心の裏付を持つことが、甚だ少い。文芸を取扱う新聞雑誌に発表されてる多くの文章、追憶や思い出は、単なる昔話に終ってるのが大多数で、批判的要素の欠乏が甚だしい。全くそれは単に懐古的な気分から生れた過去のお話に過ぎない。ごく少数のものを除いて、幾多の文章や、談話会の記事など、例はいくらも挙げることが出来る。
文壇に於けるこの懐古的気分には、種々の誘因があるかも知れない。「明治文化研究」其他の真面目な研究団体からの気運の波及、明治維新以後の史実に手をつけ初めた大衆文学からの影響、実話物流行の一つの派生的な現われ、或は、近頃の名文章たる谷崎潤一郎氏の「若き日のことども」などからの影響、其他種々のものが数えらるるであろう。
然し、それらと全く性質の異った一つの誘因を、私は認める。そしてそれがこの小文の主題でもある。
懐古的気分から生れた追憶や思い出、過古に対する枇判が欠乏し、未来に対する進展力が更に無い、単なる昔話、そういうものが頻繁に現れるということは、どこかに、一種の停滞があることを暗示する。どこかに、一種の淀みがあることを思わせる。之を逆に云えば、何等かの停滞や淀みから、懐古的な気分が生じ、批判の乏しい進展力のない
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