昔話が栄えるのである。
こうした停滞や淀みは、文学の転向期には往々ありがちのものであるが、現在のそれは、更に陰欝なものを思わせる。固より、一方には、作家等の側に於ける無気力もあるかも知れないし、他方には、文学として製造された短篇作品の過剰から来る、文学の魅力の喪失もあるかも知れない。然しそれよりも、他の陰欝なもの、日の光を遮る雲のようなもの、云いかえれば文学全般の曇天を、更に思わせるのである。
文学の曇天、このことを云う前に、これを分りやすくするために、この頃新たに自由主義ということが唱えだされた所以を考えてみるのも、無駄ではあるまい。
*
自由主義は、云うまでもなく、一の態度であり、一の心構えであって、政策ではない。それゆえ一定の実践的方面への推進力は持たない。
それは、個人の人格を尊重し主張する。思想の自由を主張し、言論の自由を主張し、時としては行動の自由までも主張する。そしてそれ相当の熱情さえも持っている。然しながら、社会生活に対して、斯くあらねばならないという具体的実践的規範を提出しはしない。
随って、自由主義の唱導は、何等かの権力的統制の過重を思わする。実際、何等かの権力的統制の過重なしには、自由主義は唱導される理由を持たないであろう。
然るに、この自由主義はそれ独特の正義観から、或る機縁を与えらるれば、火となって燃え上る可能性を持っている。自由主義の発生地は、社会のインテリ層である。インテリ層は、最も早く火を引き易い可燃層である。持続的な実行力は弱いが、一時的な爆発力は強い。フランスの大革命も、ロシアの革命も、また近くは我国の明治維新も、そのことを吾々に示して呉れた。そしてこのインテリ層が火を引き初めるや、その自由主義はもはや自由主義ではなくなる。一躍反対物へ転化してしまう。
自由主義のインテリ層が、如何なる機会に火を引くか、そして如何なる火を引くか、それが問題なのであって、統制者側の最大の関心注意は、そこにある筈である。
一の権力的統制が、自己を強度に確立しようとする時、危険なインテリ層の火を、或は一挙に踏みつぶすこともあろうし、或は長くぶすぶすとくすぶらせることによって、やがて死灰になすの方策を取ることもあろう。前者を覇道とすれば、後者は王道である。だがいずれも、万一の危険は覚悟しなければならない。そこで、最も安全な道を選
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