かされはしない。人生記録は既に遠くの彼方に眺められる。それの改装した人間記録も、可なりの彼方に眺められる。この距離感は、立場の移転を示す。
 新たな出発に当って、吾々の立場の移転は種々のことによって知られる。例えば、最近まであれほど身近に感ぜられたアンドレ・ジィドが、今は可なりの距離に遠退いている。これは初期と中期との彼の作品について言うのである。あの精緻な追求や仮託は、吾々にとって一時の道連れに過ぎなかった。ポール・ヴァレリーについても、吾々はもはや同じ呼吸を保ち得ない。それらのことを、現代の文学者たちの各人について考えてみる時、吾々は今、新たな立場に在ることが認められるであろう。古典的な大作家に対する親易な気持ちは、文芸復興期に現在があるのでない以上、却ってこの新たな立場の立証ともなる。
 誰と共に吾々はいるのか。誰と共にもいない。出発に当って、道連れは何なのか。恐らくは原子爆弾であろう。軍事や政治の面に於て言うのではない。文化という自慰的な旧衣を脱ぎ捨てた文明の面に於て言うのである。
 原子爆弾は象徴的である。爆弾そのものに対して人道などを持ち出すのは、寝言に等しい。原子爆弾に象
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