説的性質の作品であろう。
私小説は嘗て、日本に於ける自然主義の末裔として隆盛を来した。自然主義から脱け出そうとした作家の多くが私小説を書いたことは、事実であるが、自然主義の所謂人生記録の尊重は、各作家の理念傾向を超えて、私小説を暗々裡に支援した。この支援が、現在に至るまで絶無とは言えない。
何かの嫡子にせよ、或は何かの末裔にせよ、ほんとの文学作品をという声に応じて、新たな私小説の抬頭が仄見える。日本では元来、指示することよりも歌うことが喜ばれる。新たな私小説は歌おうとしている。そしてこの歌は、敗戦国民の感傷的な哀歌に堕落する恐れが、果してないであろうか。
低級な私小説はともかく、高級な私小説に於ては、嘗て人生記録が尊重されたように、少しく改名して、人間記録が尊重されるかも知れない。この人間記録は、その基盤として人間一般を持つと共に、その制約として作者自身を持つ。人間一般は、結局のところ誰でもない。指示を本質とする散文芸術に於て、誰でもないことは空疎を意味する。作者自身による制約は、結局のところ観照に終始する。観照は創造性を去勢させる。
人間記録などという言葉に、吾々はもはや甘や
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング