低いが体躯[#「体躯」は底本では「体駆」]のがっしりした女で、顔が広く、眼も鼻も口も大きく、頑固だが善良なのである。
 私はさりげない風に話しだした。――酒飲んでばかりいてもつまらないから、何か思いも寄らないことをして、びっくりさせてやろうと、照代と約束した。そこで、旦那が来る日は困るが、お多賀さんのはからいで、家の中にこっそり隠れさしてはくれまいか。夜中に出ていって、照代が眠ってるところへぬっと顔を出し、あっと驚かしてやりたいのだ。
 そんなこと、彼女には可笑しくも面白くもないらしい。
「旦那の方は、家へはあまり見えないから、構いませんが、そのような悪戯は、いけませんねえ。なにしろ、女ばかりですからね。」
 私は言い足した。――女ばかりだから、なお面白いのだ。事によっては、覆面でもして、強盗の真似をしてもよい。
「縁起でもありません。いけませんよ。」
 私は言い直した。実は、おどろかすのはどうでもいいんで、照代の寝顔がちょっと見たいんだ。女というものは、起きてる時と眠ってる時とは、ずいぶん顔立が違う。照代もたぶんそうだろう。それをちょっと見たいんだ。
「ご冗談でしょう。よく知っておりますよ。姐さんの寝顔なんか、倦きるくらい見ていらっしゃるじゃありませんか。」
 私は言い進んだ。――ほんとのところは、ひとりで眠ってる照代の顔が見たいんだ。側に誰もいず、ただひとりきりの、その寝顔が見たいんだ。それほど真剣に、照代が好きになってきた。一日でいいんだ。そしたらすぐに、黙って帰るよ。この気持、分るだろう。頼むよ。
「そりゃあ、姐さんもあなたが好きですよ。」
 お多賀さんは突然別なことを言い出して、私の顔をまじまじと眺めた。私は顔の赤らむ思いがし、そして、へんに惨めな気持ちになった。
 私は下向いて、黙りがちになった。お多賀さんの方で、いろんなことを饒舌りだした。いつのまにか立場が変って、私にあれこれと注意をする。結局今晩でも宜しいときまった。お座敷をつけて照代に逢い、遅くなってから、私が一足先に帰る。照代もすぐ家へ帰り、たいてい、いつもの通りじきに寝てしまうだろう。いい頃を見計って、表の戸の間に、お多賀さんが半紙をはさみ、端っこを少しのぞかせておいてくれる。それを見て、私が指先で軽くノックすれば、お多賀さんが戸を開けてくれる。あとは成り行き次第だ。
 然し、私はその通りには従いかねた。すぐその晩は照代に逢いたくなかった。間合いがわるいのだ。数日の間を置いて、そして寝顔、いや、夢、とならなくては、私の心にぴったりとこないのである。
 私はお多賀さんと別れてから、ひどく長いように思われる時間を過した。寄席にはいってみたり、映画館はいやになってすぐに飛び出し、酒を飲んだり、球撞きをしたり、夜店をぼんやり眺め歩いたり、なにやかや、自分でも忘れてしまった。心がめいり、ますます惨めな気持ちになった。
 この心気の銷沈は、私には思いがけないことだった。失恋に似た感じだ。初め私は、ばかげた悪戯をしてるような気がしたり、真剣な試みをしてるような気がしたり、へんにちぐはぐな思いだったが、その両者が分裂したまま、次第に両方へ離れてゆき、中間に空虚が出来て、その空虚の中に私は陥っていった、とでも言おうか。何もかも取り失った感じなのだ。
 うっかり、真意に近いことを饒舌り、急に、お多賀さんから同情されたらしいことも、私の惨めさの原因だった。お多賀さんの同情は、却って、照代を私から遠くへ引離してしまった。
 私はひどく疲れた。立ち止って、暗い水面を眺めていると、こんな時に人は投身入水するかも知れないと思い、ぞっとした。晩秋の夜気が身にしみた。屋台店でまた酒を飲んだ。腹の中に嘔き気がたまってくるようで、惨めな上に嫌な気持ちだ。それでも、私は決行しなければならない。なにかに憑かれてるに違いなかった。和服だから懐手をし、眼を足もとに据え、照代の家の方へ行った。
 背の低い数本の青木と八手をかこんだ竹垣から少しひっこんで、閉めきってある戸の間に、白紙の端がのぞいていた。近づいてその白紙を引っ張ったが、取れず、私は指先で軽く戸を叩いた。
 門燈の淡い光が流れてる街路には人影もなく、家の中にも物音はなかった。私は戸に肩をもたせかげんにして待った。
「どなた?」
 全くだしぬけに、戸の向うからお多賀さんの囁く声がした。
 私は返事をせずに、戸を軽く叩いた。戸がゆるゆる開かれ、燈火が私の顔を撫でた。
「遅いですねえ。いらっしゃらないから、もう寝ようかと思ってたところですよ。」
 私は返事をしなかった。先刻から、もう口を利くまいと決してるのを、いや、口を利いてはいけないことになったのを、その時感じた。私は唖になったのだ。
 のっそり上りこんで、長火鉢の前に坐った。炭火が少しあるの
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング