だか分らなかったが、とにかく、彼女が私を夢にみてることだけは、いやにはっきりしている。その明瞭な一事だけを、夢の中で見つめながら、私は眼を覚したが、覚めてもなお、その一事を見つめ続けた。それから骸然と飛び起きた。
壁に突き当った感じだった。丹前をひっかけて、室内を歩き、煙草を吸い、思い直して布団にもぐったが、なかなか眠られず、ウイスキーを飲んだ。そして酔いながら、私はばかげたことを思いつき、それを実行してみようと考えたのである。つまり、夢にみたことを現実にやってのけること。
私は照代をまだ愛していた。深刻な未練はなかったが、さっぱりと別れてしまうほどの決心はしていなかった。彼女と馴染んでからさほど長い時がたったというわけではなく、単なる色客としての地位に満足していたし、彼女が新たな旦那の世話になることも、芸妓としては当然なことと考えていた。そして、彼女の方でも私を愛し続けてることと、内心では自惚れていた。
「あなたのことは、いつまでも、一生、忘れないわ。」
彼女は何度かそう言った。忘れないというのは、つまり、私の方から別れてゆかない限り、現状を続けてゆくことだと、そう私は解釈していた。ところが、夢によって判断すれば、忘れないとは別れることの予告だったようだ。
夢による判断、これは日常生活の場面では、児戯に類する。然し、私は自分の経験から知っていた。嘗て、或る恋愛に熱中していた頃、私は相手の女を一度も夢にみたことがなかった。醒めては常にそのひとのことを考えていても、夢にみることは、たとえ希っても一度もなかった。恋すれば夢にまでみるというのは、私にはどうも嘘に思える。却って、始終思いつめていたのがいつしか忘れがちになった頃、愛情が淡くなり消えていった頃、そのひとの影があまり心にささないほど疎遠になった頃、夢にみるものなのだ。
私の夢によれば、照代は私を夢みてるのだから、もう彼女の心は私から遠ざかり、私を忘れがちになってるに違いなかった。なお私の方も、そうした彼女を夢みたのだから、ずいぶん愛情もさめてるに違いなかった。私達はお互に、忘られがちになってることを、夢の中で、淋しく悲しく、怨み合い復讐し合ってるのではあるまいか。
現実に、あの夢を再現してみたら、どういうことになるだろうか。酔狂でなく、真剣に、痛切に、私はそのことを考えたのである。
夜中、彼女が眠ってるところへ、彼女が全く知らぬ間に、私は姿を現わさなければならない。彼女の夢に私が現われる、その通りのことにならなければならない。そして、私は、夢の中と同様にして、彼女と対面しなければならない。寝言をいう人に向って、その寝言に応対すれば、その人の寿命は縮まるとか。眠ってる人に対して、夢の中と同様にしてその人と現実に対面すれば、相手とこちらとは、果してどうなるだろうか。寿命が縮まるぐらいのことは何でもない。
ただ、困ることには、彼女は中途で眼を覚すかも知れない。つまり、中途で夢からさめるかも知れない。現実の私は消え去るわけにはゆかない。その時、どうなるか。どんなことが起るか。どうせためしてみるだけのことだ。構うものか。
私はウイスキーに酔いながら、あれこれと手段を講じた。酔狂に類するこの考えも、実はさほど他愛ないものではなく、私としては痛切な感情の裏付けがあったのだ。私はやはり彼女を愛していた。愛していたからこそ、こんなばかげたことを考え廻したのである。考え廻しながら、私の心には、彼女の顔が、彼女の息が、彼女の肌が、しつこく絡みついていた。私はふっと涙ぐみまでした。彼女を溺愛した日々のこと、だいぶ遠ざかってきたこの頃のこと、夜中のことや朝のこと、さまざまなことが思い出された。彼女の音声まで耳に響いてきた。彼女はしばしば、なぜと反問してきた。なぜ、だか、なで、だか、丁度その中間のやさしい声音だった。
彼女の新たな旦那がどういう男だか、私は知らない。私の方から聞こうともしなかったし、彼女の方から話そうともしなかった。私としてもさすがに気持ちのよいことではなかったが、嫉妬の念はあまり起らなかった。
「仕方がないのよ。許してね。でも、これから、あなたにお金の心配をあまりかけないですむわ。二人でぜいたくしましょう。」
あっさりと、そのようなことを彼女は言った。私は返事をしなかった。その代り、彼女に酒を強いた。
私は早速、実行にかかった。
照代の家には、お多賀さんというばあやがいて、家事万端をやっており、その姪にあたる喜久ちゃんという少女もいて、洋裁と和裁との稽古をし、ゆくゆくはその道で立つつもりらしい。
私は、近くの小料理屋から使いを出し、ひそかにお多賀さんを呼んでもらった。彼女はお湯の道具をかかえてやって来て、酒杯を受けながら、怪訝そうに私を見上げた。
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