をほじくった。お多賀さんがお茶をいれようとするのを、手で制して、酒を飲む真似をした。
「お燗をしますか。」
私は頭を振った。
「大丈夫ですよ。姐さんは、酔って、眠ってますよ。」
囁いてるその声が、私の耳にはへんに大きく響く。
「起してきましょうか。」
私は頭を振り、コップの冷酒を飲んだ。何をお多賀さんは感違いしてるのだろう。照代の眠ってるところを見るのではなかったかしら。私は思い返してみた。そうだ、確かにそうだったんだ。
二杯目のコップを干して、私は立ち上った。何度か立ち寄ったことがあるので、家の様子は分っている。照代の居間の方を指差した。お多賀さんは眼で笑った。
「いたずらなすってはいけませんよ。」
縁起棚の金具類の光りが眼に残り、二階への階段は洞穴のようだった。一足一足、跛をひくようにして昇ってゆくと、長い洞穴の上に、ぼーっと明りがさしていた。そこの襖が、開かれたままになってるのである。不思議な気がして、私は立ち止ったが、考えたって分ることではない。
室の中は、スタンドの雪洞の淡い明るみで、靄を溶かしこんだようだった。照代は眠っていた。
臙脂と緑と青の三つの地色に椿らしい花を飛ばした布団が、何の重みもなさそうにふうわりと彼女を覆っていた。タオルをつけたその襟の下に、彼女の顔は半ば隠れ、二枚の敷布団と二つ折りのパンヤの枕の厚みの中に、半ば埋まっていた。かきあげた束髪の毛並は濡れてるような感じで、額と頬の皮膚は脂を拭き去ったような感じである。ふくらみかげんの瞼に少しく赤みがさし、すっきりと高い鼻がへんに白い。すやすやと眠ってると言うのも、言いすぎに思えるほど、寝息がない。
なにか違う。
私は気付いた。枕がいちばん違ってるのだ。春乃家では、彼女はいつも赤い箱枕を使った。二つ折りのパンヤの枕など、彼女について私は想像だにしなかった。寝息がないのもその枕の故だろうか。かすかに酒の匂いのこもった芳ばしい呼吸、時おり胸をふくらますあの呼吸は、どこへ行ったのか。
私は室の入口近く、彼女から少し離れ、両膝をそろえて坐り、彼女の様子をじっと窺ってるのだった。身動きをすれば、こちらを向いてる鏡台の鏡の中に、それが一々捉えられるかも知れないと、怖れがあった。鏡台掛の桃色の布が、下されていないのである。その鏡だけが、室の中で生きてるのだ。衣裳箪笥も、用箪笥も、小さな長火鉢も、三味線も、衣桁になげかけられてる衣類も、其他すべて、ぼーっとくすんでいる。赤塗りの本箱の上に、花器に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してある菊は、葉がしおれかけ、白と黄の花輪も艶を失っている。彼女自身、枕頭近くの水差やコップと同じよう、呼吸もないほど静まっている。
その、彼女の眼が、いつ開いたのか、両方とも大きく開いて、私の方へ向けられていたのだ。あ、私は息をつめて、その眼に見入った。睫毛を上下にはねて、ただ黒々と、底知れぬ深さを湛え、その深みの奥へ奥へと私を引きずり込もうとしている。
とっさに、私は思い出した。いつの頃とも、誰とも、それは分らないが、私は同じような眼を見たことがある。死体の眼だ。病死か変死か、それも分らないが、或る死体の両眼が、ぱっちり開いて、じっとこちらを見ていた。そして私を、私全体を、その真黒な底なしの深みへ、引きずり込もうとしていた。抵抗出来ない眼だ。死体の眼はつぶっていなければいけない。開いたままにしておいてはいけない。あまりに恐ろしいことだ。
その眼が、いま、そこにあった。彼女は寝たまま、身じろぎもしなかった。息もしなかった。死んでるのか。いや、両眼を開いてることだけに生きて、私をじっと見ていた。
突然、私は竦んだ。言い知れぬ恐怖に囚われた。言葉も出なかった。じりじりと、逃げるつもりか、乗り出してその眼を押えるつもりか、或は雪洞の明りを消すつもりか、自分でも更に分らないが、ただじりじりと動くつもりで実は、ぱっと飛び上ったらしい。
瞬間、私はひどい衝撃を受けてぶっ倒れた。後で分ったことだが、私の横手に小机があり、茶菓用の陶器や硝子器がのっていて、私はそれにぶっつかり、器物を破損し、腕を傷つけ、倒れるひょうしに頭を強打した。酔ってる時には人は怪我をしないものだと言われるが、これは嘘らしい。時と場合に依るものだろう。もっとも、私の怪我は大したものではなかった。
傷の手当や後片付けがすむと、私と照代は、炬燵に火をいれてあたり、あらためて酒をくみ交した。一時は喜久ちゃんまで起きてきたが、やがて、お多賀さんとともに寝てしまった。
「ご免なさい。ね、許して。あなたが、そんなに真剣に、愛していて下さるとは、思わなかったのよ。あたし、もう何もかもいや。どうなったっていいの。あなた一人、ね、あなた
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