したとすれば、他の何処で買ったよりも、街頭で買ったという感が深い。
買物ばかりではない。飲食の場合もそうである。カフェー、バー、新興喫茶店、小料理屋、鮨屋、ビヤホール、それらのところで、酒を飲むとすれば、それは街頭で飲んだ感じである。他の処では、如何に街頭に面したおでん屋でも、飲んだ酒は屋内で飲んだことになるが、銀座でだけは、屋内でなく街頭で飲んだことになる。新宿や浅草の盛り場でも、恐らく銀座ほどの街頭感はあるまい。銀座に於ては、菓子を食い珈琲を飲むのは勿論、相当な料理屋で夕食をしても、それが大抵、街頭でなされたことになる。銀座で女に戯れるのは街頭で女に戯れるに等しい。
都会生活というものは、それが深まれば深まるほど、街頭的となるようである。街路はもはや道路ではなく、都会という大なる建造物の廊下であって、既に廊下である限り、屋内と屋外との区別は不明瞭となる。街頭的ということは、廊下的ということである。
銀座の街路は、道路であるより多く廊下である。そしてこの廊下、万人共通のものである。だから多くの人は、取澄しまた着飾っている。道路でよりも共通の廊下での方が、人は見栄を気にするものら
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