したとすれば、他の何処で買ったよりも、街頭で買ったという感が深い。
買物ばかりではない。飲食の場合もそうである。カフェー、バー、新興喫茶店、小料理屋、鮨屋、ビヤホール、それらのところで、酒を飲むとすれば、それは街頭で飲んだ感じである。他の処では、如何に街頭に面したおでん屋でも、飲んだ酒は屋内で飲んだことになるが、銀座でだけは、屋内でなく街頭で飲んだことになる。新宿や浅草の盛り場でも、恐らく銀座ほどの街頭感はあるまい。銀座に於ては、菓子を食い珈琲を飲むのは勿論、相当な料理屋で夕食をしても、それが大抵、街頭でなされたことになる。銀座で女に戯れるのは街頭で女に戯れるに等しい。
都会生活というものは、それが深まれば深まるほど、街頭的となるようである。街路はもはや道路ではなく、都会という大なる建造物の廊下であって、既に廊下である限り、屋内と屋外との区別は不明瞭となる。街頭的ということは、廊下的ということである。
銀座の街路は、道路であるより多く廊下である。そしてこの廊下、万人共通のものである。だから多くの人は、取澄しまた着飾っている。道路でよりも共通の廊下での方が、人は見栄を気にするものらしい。そして見栄から種々の流行が生れるのであろう。
D
帝都の上空を飛ぶ飛行機――殊に軍用飛行機に対して、事変以来、市民の態度が著しく変ったようである。以前は、飛行機の爆音を耳にし、或は飛行機の姿を認めても、街路を行く人々はただ、ははあ飛んでいるなと内心に思うだけで、むしろ素知らぬ様子をすることが、文化人らしい一つのポーズでさえもあった。特殊な長距離飛行機など、一種のスポーツ的興味を伴うものは別として、普通の飛行機に対する関心は、謂わば田舎者めいた野暮くさいものとの感じがあり、街路に立止って飛行機を眺めるなどは、一般の人々の――殊に、悲しい哉インテリ階級の人々の、へんに照れくさい思いをする事柄だったのである。
然るに、事変以来、飛行機に対する関心は俄然高まり、機影を認める時は固より、その爆音を聞いただけでも、会話を中止し街路に立止って、相手の肩を叩きかねない様子で上空を仰ぐことが、自然のこととなり、時には、尖端的な文化人らしい態度とさえも是認されるに至った。
この変化は、注目に価する。そしてこれは勿論、戦地に於ける我が軍用飛行機の壮挙、渡洋爆撃とか荒鷲とかいう言葉
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