、おそろしく平凡低調な善良さだけがあり、そこに生活的ルンペン性がひそんでいる。
 都市の中心から外れた小料理屋やおでん屋に巣喰ってるところの頸白粉の女や板裏草履の男――而もまだ若いそれらの男女は、何によって救われるのであろうか。

      L

 日本の神社には、大抵、鳩と亀と鯉とがいる。そして大抵、大勢の子供たちがそれらに餌などやって遊んでいる。この風景は、如何なるものよりも微笑ましい。例えば、公園や動植物園やまたは特殊の有料遊園などの、如何なる風景を取ってきても、右のものには及ばないだろう。そしてこれは、日本的なものの一種の象徴の域にまで高まるものを持っているし、支那大陸に相通ずるものを持っている。神社の清いのびやかな境内で、鳩と亀と鯉とに戯れてる朗かな子供たちの写真を、故国を想う出征兵士たちに贈りたいものである。

      M

 子供――殊に幼児――を連れて外出するということは、次第に少くなりつつある。この現象は列挙すればいくらもある。劇場や映画館で子供の泣声が聞えることは、甚だ稀になったし、子供の姿を見かけることも少くなった。百貨店内でも同様である。電車の中でも、子供の数は著しく減少しているようである。また往来で、乳母車を見かけること少く、背に子供を負った者は固より、胸に抱いてる者まで、甚だ少くなった。普通の交際で、子供連れの客が減少したことは、どこの家庭でも知っているだろう。
 このことは、一般の家庭に於て、殊に若い母親の方面に於て、子供の取扱方が異ってきたことを意味する。つまり、子供というものが、母親を初め大人の身辺から、或る程度切り離されて、家庭内で一個の存在となってきたのであろう。――育児ということが、具体的に新たな意味を持ってきた。
 ところで、映画館や百貨店などの人込みの中から、或は大人の背中に結びつけられることから、或は他家のもてなしの不馴れな食物から、或は母親の身辺への盲目的な密着から、子供が解放されるということは、子供のためによいことであろう。――乳不足の若い母親が多くなりつつあるのは、憂うべきことながら、その代りに、牛乳や人工乳が発達してきたことは、子供のためによいことであろう。育児上の種々の知識を以て、傍から見守られることは、子供のためによいことであろう。――然しながら、種々の意味で解放され且つ見守られてはいても、家庭内で、子
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