片のパンをかじりながら、田舎道を辿るのは、敗残者の道行であり敗残者の逃亡である。新生活の建設は、単なる予想にすぎず、地平線の彼方の夢にすぎない。ただその夢は現実の相よりも大きく力強く、現実の姿を取って全体をおし包む。然し実際には、新生活の建築は其後のことである。
 ドストエフスキーの「罪と罰」の結末は惨めである。シベリアへ流される殺人者と、その後を追う売笑婦。普通の人は眉をひそめるであろう。そこへ黎明の光をもたらすものは全く、其後の新たな物語にすぎない。「死の家の記録」に見られるような深い人間性の展開があるだろう、という予約にすぎない。モルナールは「ドナウの春は浅く」のなかで、現実生活に敗れた少女をして、ドナウの濁流の中に身を投じさせた。そしてその後で、少女を乗せていた空舟のまわりに、濁流を乗り切る野菜船の男女の歌声を、勇ましく高らかに響き渡らせた。別個のものを、或は別個の思想を、持って来たのである。
 現代の多くのインテリの生活には、旧生活からの逃亡と新生活への首途とが綯い合されている。あらゆる信念の崩壊を一度くぐりぬけてきた人々にとっては、遁走が発足であり、発足が遁走である。彼等が
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